否定じゃなくて

Mariko Yasuura
exploring the power of place
4 min readJan 10, 2019

渋谷では現在、再開発が進んでいる。再開発に限らずとも、半年前にあった居酒屋は閉店していて、新しくカフェができている。渋谷という街は常に何かしらが変化している。

わたしは普段あまり渋谷に自ら好んで足を運ぶことはしない。渋谷という街は、食事やショッピングをするのに事足りる街であることは十分承知しているし、わたしの自宅から渋谷まではおよそ20分くらいだから、地理的な距離もそこまで抵抗感がある場所ではない。

渋谷を使う場面といったら、友人たちと会うためにお互いにとって中間地点だから待ちあわせ時間にえらぶくらいの場所だ。

そのくらいでしか渋谷を利用しない私が、たまに渋谷に行くと、その変化の在りように驚いてしまう。渋谷はいつもどこかが変化しているからだ。

わたしの渋谷の利用頻度は、去年は3ヶ月に1回ほどだった。その頻度で渋谷を利用すると、電車に乗り、ホームに降りて、そこから目的地に向かうまでの間で、駅構内や駅周辺では工事中の土地や建物を数多く目にする。渋谷はいつも変化しているのだ。

わたしはあまり、変化が好きではなかった。占いではいつも「あなたは変化を好まない人ですね」と言われていたし(占いは都合良い内容だけ信じるようなタイプだが)、毎日刺激的な生活を送ることよりも、安定して、同じことを繰り返す日々なかで、小さな幸せを見出すことに魅力を感じてしまう。だからきっと、わたしは渋谷のその変化っぷりに気疲れしてしまうのだ。3ヶ月に1回の頻度で渋谷に訪れるわたしにとって、その3ヶ月分の変化は、大きすぎる変化なのだ。

冒頭で記した変化は街のなかで起こるものだが、街を歩いているときに見かけるそれは、目の前を通り過ぎてしまえば、その変化に対して過敏になることはない。それは、街に対する愛着度合いにもよるが、自分のなかではそこまで大きな問題ではない。けれど、自分のなかで生じる変化には、敏感になってしまう自分がいる。変化するということは、それまでの自分の、ある部分を否定して、新たな価値観や考え方を自分に取り入れることだと思っている。そう考えると、自分のある部分を形成するために費やした過去の時間や労力が打ち消されてしまう気がして、つまり、今までの自分のことを否定してしまう気がして、変化は怖いと思ってしまうのだ。

しかし、ここ数ヶ月で、何度か渋谷に訪れる機会が増えた。およそ1ヶ月に2度くらいの頻度で渋谷に訪れるくらいまでになったのだ。用事の内容は相変わらず友人と会うためなどで、渋谷での過ごし方が特別変わったわけではないが、出かける頻度は確実に高くなった。訪れる機会が増えてから、わかったことがある。

それは、変化というものは突然大きく起こるものではないということ。何度か足を運んでみると、当たり前だが、変わっている部分はそこまで大きくないということに気がついた。数日前に比べて、小さく、そして少しずつ工事現場の骨組みが移動されているのを見た。その変化は、その時々に必要なものやことをだれかが判断して、より良い空間にすることを目的とした努力として現れたものなのだ。

それは、昨日までの進行具合を否定しているわけではない。

渋谷の工事現場

変化するということは、過去を否定するのではなくて、次なる段階に進むための一歩なのだろう。

街で起こる変化と、自分のなかで起こる変化を同じように考えるのは的外れなのかもしれない。だが、駅構内の工事現場や街の再開発工事という、ありありと光景が変わって行く様を見ていると、そんな風に思えてしまうのだ。

渋谷に行く頻度が3ヶ月に1回ほどだったのが、1ヶ月に1回の頻度で行くようになるという、自分のなかで生じた小さな変化を通じて、変化に対する意識が少し変わったのだ。

やはり渋谷は、変化に富んだ街なのだろう。
変化に対する気持ちを変えてくれた渋谷を、わたしももう少し受け入れてみようか。

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