変わりゆく距離

学校の門を出たら、最初の角を左に曲がる。すると目の前に現れるのは頂上が見えないほど長く果てしない坂。息を切らしながらひたすら上っていき、頂上に着いたら、右に曲がり、次はすぐ左に曲がる。そしてまっすぐ歩いていくとやっと我が家にたどり着く。その距離ざっと1.3キロ。6年間歩いたその道は、小学生の私にとっては「果てしない通学路」であった。

私が小学生の頃の放課後の遊びといえば、誰かの家に遊びに行くか、公園で走り回るか、もしくは学校近くの駄菓子屋に小銭を握りしめて行っては、どのお菓子を食べようか吟味したりするのが大体のお決まりであった。その中でも、誰かの家にお邪魔することは、狭い生活圏内の中での未知なる空間に足を踏み入れることであり、毎回特にワクワクしていたことを今でも覚えている。友達の間では、次に誰の家に遊びに行くかはなんとなくの順番がついており、Aちゃんの家に行ったら次はBちゃん、その次はCちゃん、そしてまたAちゃんに戻る、というようなサイクルが暗黙のうちにあった。しかし私はそのサイクルから飛ばされるイレギュラーな存在であったのだが、それは「果てしない通学路」、こいつのせいだった。友達のほとんどが学校から5分〜10分程度の距離に住んでおり、放課後は家まで一目散に走って帰ることができた。その一方、私の家は山の上に位置していたため、どの方面から来るにしても必ず長い上り坂をクリアしなければたどり着けない場所であった。この息切れ必至の坂が1.3キロの道のりを数字以上に長く感じさせており、「学校から遠い家」という意識を、私、そして周りの友達にも植え付けていたのである。そのため私の家は学校が早く終わった日にだけ行くことのできる、特別な家として扱われていた。

「果てしない通学路」も、図にすると割とすぐ「果て」があったことに気付く

大学生になってからは歩くことがぐっと増えたように思う。特にコロナ禍になってからは、それまで車で行っていたような距離のスーパーも歩いて行くようになった。それこそ子供の頃はあんなにも長く感じていた小学校までの通学路も、今となっては長いと感じる間もなく歩けてしまっているのである。子供の頃に感じていた遠さはもうない。むしろ、1.3キロなんてグーグルマップで表示されたら近いと感じてしまう程度の距離である。それを「果てしない」などと思っていた自分が可笑しく思えた。

もちろん子供の頃から体力的に成長したことが通学路を遠く感じなくなった要因であるはずなのだが、それだけではないのだろうと最近思うようになった。きっと、子供の頃は無我夢中で目の前に伸びる坂道を見つめながら歩いていたのである。あの時の私は確かに「道を歩くこと」に時間を使っていた。しかし今はどうだろうか。同じ道を歩いていても、私の耳にはイヤホンがささり、手元にはスマートフォンが握られている。私は確かに歩いているのだが、私は友達とのチャットや耳元から流れる音楽に集中することに時間を費やし、歩くことに意識を向けていない。道端の花や変な形の石ころ。昔は、面白いものとしてわざわざ目に入っていたはずのものも、今や道と一体化して捉えるようになってしまった。昔と通学路の感じ方が変わったことを、「自分も大人になったなあ」などと思っていたが、それはただ歩くという自分の行為に無関心になっただけだったのかもしれない。そんなことを思うと、自分がもともと持っていたはずのものを手から離してしまったようで寂しい気がした。

時が経つにつれて、成長するにつれて、変わったことをあげればキリがないのだろう。冬になるとコタツから動かなくなる私に向かって母は、「雪が降るたびに庭に飛び出していた頃のあなたが懐かしい」と言うのだが、雪に大喜びしなくなったことは自分でも少しショックだった。しかし変わらないこともある。今でもお店に並ぶガチャガチャを回してお気に入りを集めることは大好きだし、家にある梱包材のプチプチを潰すことはしばらくやめられそうにない。

変わっていく私、変わらない私、昔と今にどんなに距離ができようとも、私という同じ人間が今日を更新して生きていくことには変わりないのだ。

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