大学生は27歳。

Kiyoto Asonuma
exploring the power of place
5 min readSep 19, 2016

「今日はお仕事、おやすみ?」

初めて入ったお店のカウンターに座っていたとき、大将からこう話しかけられた。ああ、またか。そう思いながら、いつもの通り、大学生であること、大学は夏休みであることを伝えた。

「じゃあまだハタチぐらいか。若いんだねえ」

10代の頃と変わらず茶髪にTシャツを着て短パンを履いているが、ご飯を食べに行ったり髪を切りに行ったりするとこういうやり取りをすることが増えた。大抵の場合、この後の会話の行き先を考えてうんざりし、曖昧に笑って会話を終わらせる。ぼくは8月に誕生日を迎え、晴れて「27歳の大学3年生」になった。

「なんで『普通の人生』を、普通に送れないの?」

かつて付き合っていた恋人に言われた一言だ。ハタチの頃だったら気にしなかっただろうが、25歳を過ぎて言われたこのことばは、ぐさりと胸に刺さった。最近は、特にぼくらより下の世代を中心に、“普通の人生”と聞くと「普通の人生、ってなに?」と挑発的に問うひとが増えてきているらしい。あのとき、ぼくもそう言い返したかった。でも、ほんとはみんなわかっているはずだ。みなが共通して思い描く“普通の人生”は(数通りのバリエーションはあれど)たしかに存在している。

メアリー・C・ブリントンは著書『失われた場を探して』(2008,NTT出版)の中で次のように述べている。

1960–80年代の日本では、人々が人生の重要イベントを経験する「適齢期」が非常に細かく決まっていた。学校教育を終える時期や正社員として就職する時期もそうだし、結婚する時期や最初の子どもをもうける時期もそうだった。おまけに、一連のイベントを経験する「正しい」順番までワンパターンに決まっていた。

日本では“普通の人生”が、他の先進国に比べて、かなり明確に、厳密に決められていた。それはつまり、切れ目なく、正しい順序で年齢に合った「場」を渡り歩くことが求められていたということだとブリントンは書いている。中学校を15歳で卒業して義務教育を終え、高校という場に移り、人によっては大学という場を挟んで、22歳、あるいは24歳で職場という場にたどり着く。結婚は当然、就職したあと、だ。これらが前後することもなければ、それ以外の場が挟まれることもほとんどない。最近はその傾向が薄まってきているとはいえど、名残はいまだ強く感じる。日本で大切なのは、適切な年齢で、適切な場に所属していることなのだ。

OECD教育データベース(2005)より作成

大学に入る前、ぼくは「場」に属していない時期があった。その期間、ありきたりな言い方だが、場に属していない人間に対する日本社会の、目には見えない風当たりの強さを感じた。同じ立場の時期に海外に住んだわけではないので比較はできないが、日本は場に属していない人間に対して、「普通」ではない「違う」生き方をしている人間に対して、信頼を与えてくれないのだと思った。

他者に対する信頼について、ブリントンは著書のなかでおもしろい研究結果を紹介している。概して日本人よりアメリカ人のほうが他者に対して強い信頼をおく傾向があるというのだ。ぼくらが持つイメージとは相反するかもしれない。けれど、日本人は、人を信頼しているのではなく、場を信頼しているに過ぎない、だから自分と同じグループ(「場」)に属している人に対する信頼感とその外部の人に対する信頼感のギャップが大きいのだ、と書かれている。

ここでいう「同じグループ」は、単に物理的な意味合いだけではないだろう。同じタイミングで、同じ(ステージを経ている)生き方をしていることも、立派なグループ形成の要因になる。

ぼくが大学にはいる前に働いていた団体は、その意味で稀有な場所だった。当時何者でもなかった(北海道の牧場で住み込みで牛飼いをしてはいたけれど)ぼくに対し、場を与えてくれ、チャンスを与えてくれ、チャレンジをさせてくれた。「同じグループ」に属していなかったぼくを、ひとを信頼してくれたのだと思う。いま考えてみてもありがたいことだ。

けれど、社会的に認められている場に属したいという欲求がキレイに消えることはやはりなかった。それはつまり、その業界における「普通の人生」で属する場に属したかった、ということだ。あのときのぼくは自分という存在に対する信頼を与えられていたにも関わらず、それよりもむしろ場によって与えられる信頼を求めていたのだと思う。「普通の生き方」を一番求めていたのは、誰よりぼく自身だったのかもしれない。

こうした矛盾した思いを抱えながら、大学に進学した。でも、順序と年齢が違う中で得た場は、簡単に他者の信頼を得ることができるものとは言えなかった。場は切れ目なく、順序正しく渡り歩くことが求められる。「普通に生きる」ことは、なかなかに難しいことだ。

ぼく実は24歳で大学はいったんです。だから大学3年なんですけど、歳はもう27なんですよ。

数日前に誕生日を迎えたばかりだったぼくは、お酒を飲んでいたこともあって、冒頭の「ありきたりな会話」のあと、珍しく真面目に答えを返した。

「そうか、いいことだね。どこにいたって、結局は一生勉強だからね」

ぼくの父親よりも少しばかり年上に見える大将は、ふとぼくに目をむけて、サラリとそう言った。魚をさばく素早い包丁の音が心地よく響いた。

参考文献

・メアリー・C・ブリントン(2008) 『失われた場を探して』池村千秋訳,NTT出版

・山岸俊男(1999) 『安心社会から信頼社会へ』中公新書

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Kiyoto Asonuma
exploring the power of place

京都生まれです。だからきよとです。元牛飼いで現大学生です。