大学4年生の葛藤

Marina Yoshizawa
exploring the power of place
4 min readJul 19, 2018

「自分はこの先、どのように生きていきたいのだろう。」

ここ数ヶ月、ずっとこんなことを考えている。きっかけは、今年の春から始めた就職活動だ。

大学3年生の冬、周りの友達との間で「シュウカツ」という言葉が頻繁に飛び交うようになった。大学を卒業した後のことなど微塵も考えていなかったわたしは、友人たちが企業のインターンに積極的にエントリーする中、その波に乗れるはずもなく、能天気に日々の生活を送っていた。

そんなわたしが就職活動を始めたのは、大学4年生の春。世間では、「就活解禁」「マイナビ」「リクナビ」といったような四文字が唐突に踊り出し、まちは全身黒づくめの学生で溢れかえるようになった。「わたしもそろそろいい加減、就活始めるか〜。」と思い立ち、スーツを買いにいったことが始まりだった。

就職活動は、不安定な道のりだ。一応俗にいう就活生を経験して、実感した。エントリーシートという数枚の紙と数分の面接で企業の人間に評価され、時には容赦なく切り捨てられる。評価基準もよくわからないまま、次々と選考を受ける。就活を始めて早々に数社から内定をもらった、という人もいれば、40社近く選考を受けて、全ての企業から振られてしまった、なんていう話もよく耳にする。選考結果に一喜一憂する日々の繰り返しだ。

不安定な道のりを歩む就活生は皆、何者かになりたがる。まさにこの現象を題材にした映画作品が話題を呼んだことは、記憶に新しい。何者かに「なりたがる」というよりも、「ならざるを得ない」と表現するべきだろうか。世の中がそうさせているのだと、わたしは思う。

就職活動を通して突然、「あなたはどのような人間ですか。」という問いを突きつけられる。21年かそこらの人生の中から、あるいは4年間という短い大学生活の中から、自分という人間を表すようなエピソードを見つけ出し、自己PRという名目で自身の強みを語ることを求められるのだ。それに対して就活生は、企業の人々にとって自分が魅力的に映るように壮大なエピソードを用意し、自分という人間にラベルを貼り、自信満々に語り出す。グループ面接を通して、数々の『バイトリーダー』や『サークルの幹部』に出会った。

わたしはこれが窮屈で仕方がなかった。就職活動のために無理やり自分にラベルを貼っているような気がして、違和感を覚えた。今まで自分がやってきたことは、何者かになるためのものではない。自分には色々な側面があり、たった一言、たった400文字、たった30分の面接で語り尽くすことなど到底できない。

かといってわたしは一就活生として、世の中の企業が求める答えに真っ向から反発することはできなかった。違和感を抱きながらも自分にラベルを貼り付け、限られた文字数、限られた時間で自分を表現するために力を尽くした。就職活動という不安定な道のりで生き残るために、社会の流れに抗うことができなかったのだ。諦めて、社会の流れに迎合したとも言えるかもしれない。

わたしの就職活動は、満足いくものであるとは言い切れない。今こうして文章に書いてしまうほどに、違和感を抱いているからだ。しかし、社会の流れに抗ってしまったら、自分は社会に受け入れてもらえないのではないか、というある種の恐怖心を同時に抱いていることも事実だ。そして、違和感よりもその恐怖心が勝っているのだろう。

不安定な就職活動を乗り越えたとしても、その先に安定した未来が待っているとは限らない。この先生きていく上で、自分の信念を持ち、違和感を覚えたものに抗うことは大切だ。 しかし同時に、前に進むためにはどこかで折り合いをつけ、受け入れていくことも必要だ。双方がせめぎ合う中で、今後わたしはどのような選択をしていくのだろうか。

「自分はこの先、どのように生きていきたいのだろう。」

はっきりとした答えは未だ見つからない。この先しばらく、自分にこう問い続けて生きていくこととなるだろう。

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