どうしてダンスをしたいのか

Yoko Takeichi
exploring the power of place
5 min readFeb 10, 2017

ダンスを始めたきっかけは単純なもので、大学1年に見たサークルの新入生歓迎ステージだった。笑顔で踊る彼らを見て、私はものすごくわくわくした。照明と客の視線を浴びて輝く彼らをかっこいいと思った。いざ始めてみると、不器用な私は基本的なリズムトレーニングさえできなかったが、面白かった。

以下は大学3年の春に私が書いたサークルのブログである。歌は、聴いたことがなければ、口ずさむことはできない。しかし、たとえ初めてきく音でも、身体を揺らすことならできる。音楽とともに身体を揺らす行為は、もう、ダンスだ。私は仲間と踊るダンスが純粋に楽しくて、どんどん好きになって、気がついたら4年間の大学生活をダンスに費やしていた。

どうしてダンスをしたいのか。

ダンスは、自分の身体ひとつを使った音楽の表現方法である。だからこそ、悩みながら踊っていたら、それもダンスに如実に表れてしまう。

たとえば私は、「サークル」というある種の縛られた環境を引退してから、改めて私にとってのダンスについて考えはじめた。本気でやればやるほど楽しいことばかりではないのに、こうも私を惹きつけてやまないのはなぜだろう。どうして自分は踊っているのだろうと頭で考えれば考えるほど、なぜか手足は鈍くなった。おまけにダンスと関係なく日常生活でも、考えるべきこと・考えてしまうことが多すぎて身動きが取れず、ダンスに夢中になれていない自分が恥ずかしいような気がして、無理やり手足を動かした。誰かが考えてくれる振りを踊るのは楽しかったが、「フリー」と言われる自由に踊る時間がしんどかった。ただでさえ即興で音に合わせて相手を楽しませながら踊るのが得意ではなかったのに、頭がモヤモヤしつづけている今、自由に音楽に身をまかせるなんて不可能だった。今までどうやって踊っていたのだろうとまで思った。

ある日、力を入れて取り組んでいた研究会の大きなイベントをひとつ終え、おまけに私の頭を悩ませ続けていた進路のめどがたった。安心して、胸のつかえが取れたような気持ちで、その日の練習は頭で考えずに踊った。自分のスキルのなさも構わず、ただ踊りたいから踊ったら、ただひたすら、楽しいと感じた。そのときの私の数秒のソロを見て、ずっと一緒に踊ってきた先輩が「今日のようこソロ、ナチュラルでいい感じだった」と一言。私が「うたうように踊りたい」「こころのままナチュラルな私で踊りたい」といった言葉をよく口にしていた時期のことだった。

最近の私が日常的に意識していることのひとつは、「こころの振れ幅をフルに」することだ。一生懸命準備をしていたら、ときが来ると、心を揺さぶられるときがある。それは人間としてとても自然な行為で恥ずかしがる必要などなく、むしろそんな瞬間が訪れることこそが尊いのだと気が付いた。強くありたいと頑なだった、プライド高く殻の分厚い私の、大きな変化だ。そしてそんな日常生活での私の考え方の変化は、逆に私のダンスにも影響する。

どうして、ダンスがしたいのか。

自分なりの曲の表現、楽しさ・嬉しさ・悔しさなど感情の発露、感謝・尊敬などの誰かへの個人的な気持ち…そんな、そのときそのときに観客に伝えたいことをストリートダンスによって伝えたいから、私は踊る。伝えるには相手がいないと始まらない。その人の心を揺さぶるために、「等身大の私」をエンターテイナーにしたいから、私は練習する。誰かのために踊ろうと思うと、届けたい人がいて踊れることが幸せだと感じてむしろ自分の気持ちがいっぱいになることもある。

2017/02/11 大切な仲間と

このように、自分のダンスと、日常生活で考えることがつながっているからこそ、ダンスは面白いのだと思う。かっこつけたいけどかっこつけられない自分、周りを大切にしているようで負けず嫌いで張り合ってしまう自分、出だしはよくても詰めが甘い自分まで、全部、みえてしまう。それはよく考えたら恐ろしいことだけど、ダンスはそういうものだからこそ、私は人のダンスを見て、心を貫かれるような気持ちになったり、たまらなく幸せになったり、何気なく聴いていた曲が大好きになったりするのだ。

ダンスっていいなと思いながら踊って、ダンスっていいなと思わせられたら幸せだ。そんな気持ちで、今もこれからも踊りたい。

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