家を離れて

ハナワヨシノリ
exploring the power of place
4 min readFeb 19, 2018

私たちは、常日頃から家が学校になったらいいのにとか家を会社になったらいいのにとか思う。そうぼやきつつも、毎日車や電車に乗って職場や学校まで通う。とはいえ、本当にそうなってしまったら、僕はおそらく何の作業も手につかない。それは家が散らかっているからだ。片付けることが嫌いではないが、片付ける速度を上回るペースでものがやってくる。物に囲まれる人生とはまさにこのことか、と思いながら過ごしている。断捨離が流行った時、一度はやってみたものの、そこまで量が減ることはなかった。仕方なくこの運命を受け入れている。

そういえば、実家にいた頃は、家で勉強するのを諦める宣言をしていた。なにも、金輪際一切の勉強をしないという意味ではない。家だと気が散って勉強できないので、あくまでも「家で」勉強しないという意味の宣言をしていた。僕の集中力が足りないのではないかという議論はさておいて、家では色々なことが舞い込んできて、一つのことに集中することには適していない。そのため、学校やカフェなどの外の場所でしか勉強しないということを家族に宣言した上で、受験勉強に励んだ。

無理に家で勉強する必要はなくて、外に出ていけばいい。そのために、毎回文房具やノート、教材などをカバンに詰めて外に行く。あくまで家はモノの保管庫として扱われていた。

一人暮らしになってもそれは相変わらずだ。大学生になると、学校やカフェに行くだけではない。行動範囲がぐんと広がる。僕の職場はやや特殊で、一人暮らしをしている家から片道3時間かかる場所にある。朝6時に出ても、着くのは9時頃だ。そのため、前日に職場近くの友人の家に泊まることや、向こうで一泊して帰ることもしばしばだ。どんなことが起こってもいいように、一泊分の荷物くらいは、常にカバンに詰め込んで職場に行く。友人宅に泊まり、2日ぶりに帰ってきた家のアイテムたちに対して、「本当に必要?」と問いかけたりもする。実際にカバンに入っているものだけで生活でき、何一つ不自由していない。もしかしたら、家なんて必要なく、僕はバックパックだけで生きていくことも可能かもしれない。まぁ、むしろ僕はそれを「倉庫」と呼んで気に入っている。

人は、長く生きていくと、荷物があれやこれやと増えていく。それは仕方のないことである。今はスーツが1着しかないが、近いうちに冠婚葬祭用の黒いスーツが必要になるだろう。それを少しでもスリム化するために、家から必要なものだけピックアップしてカバンに詰めて、色々なところに出かけていっているのである。僕たちは、毎日荷造りをしているに等しい。僕の家は倉庫みたいなもので、色々なものが置いてあるにすぎない。だからこそ、時々外に連れて行ったり、適切な場所においてあげたりすることで、モノを喜ばせてあげないといけない。

いつも背負っているリュック。30L入るすぐれものだ。

もちろん、モノのためだけではなく、僕のためでもある。家では切り替わらないモードを、色々な場所に行くことによって切り替えているのである。学校だったら勉強のモード、職場だったら職場のモード。それぞれのモードに適した場所があり、それぞれに相応しいモノがある。

毎日、色々な場所へ行って帰ってを繰り返す。毎日、色々なものを詰めて解いてを繰り返す。その繰り返しの中で、僕は本当に必要なものは何なのかということを日々見直している。常日頃荷造りをしていると、棚卸しをしている感覚になるのは、間違いではないだろう。いきなり捨てる「断捨離」は少々僕には重すぎた。

少しずつ、ものとの距離を見直すことによって、少しずつ家の散らかりに秩序が生まれてくることを願う。「ただ、捨てるのは良いけれど、せめてカーテンだけは買ったほうがいいよ」と友人に言われたので、それはごもっともだ、と思いながら、今日もリュックに荷物を詰めて家を出る。

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