小腹はどこにある?

とにかくカンヅメ状態の5月だった。特に中旬から下旬かけては、研究発表や書類作成に追われ、あっという間に6月が訪れた。

パソコンで作業をしている際、お菓子を食べていることが多い。口を動かしているとどことなく集中できるような気がするというのもあるが、なんとなく小腹が減ってしまうというのもある。

いろいろなあけくち

なんとなくで食べ過ぎてしまうことを防止するためになるべく「個包装」になったお菓子を買うことにしている。個包装には三角の切り口やギザギザ、マジックカット(どこからでもあけられる)、ペリペリと剥がすタイプなどさまざまな種類のあけ方がある。ひとつひとつあける動作が伴うため、作業中の手を止める機会が増える。そのため食べすぎをセーブし、ちょうどよく小腹を満たすことができる。ちなみに「小腹」は英語でpeckish。peckはくちばしでついばむ様子のことなので、小腹を満たすということは、まさに「ちょこちょこつまむ」ことなのだ。

お菓子がどのくらいの分量で、どんなふうに包装されているかによって、お菓子の見え方は変わってくる。例えば、大きなサイズのポテトチップスの場合、「あけていい?」「うん、いいよ」というコミュンケーションが生じることもあるだろう。一方で、小分けの袋に入ったお菓子の場合、他者への「おすそわけ」や「お土産」「つかみ取り」といった多様な場面を想像させる。個包装というデザインは「衛生的であること」や「新鮮であること」を連想させるだけではなく、コミュニケーションにも関係してくる。
こうして、わたしの生活は「小分け」されたものを「あける」時間であふれてくる。ペットボトルのキャップと違い、一度あけたら戻せない。些細な決断だが、食べ切らなければならないドキドキ感も面白い。
 そのドキドキの最高峰がカンヅメだ。

包装・容器が多様化するなか、カンヅメも、簡単にあけられるプルタブ式に変化してきている。だからこそ、缶切りを使ってあけるという「手間」と「面倒くささ」を持つ昔ながらのカンヅメの存在は、ふだん何気なく行っている「あける」行為の意味を考えさせてくれる。個包装のお菓子の場合はホイホイとあけていたわたしが、缶切りとカンヅメを前にすると「あける」か否かを立ち止まって考え始めるのだ。「あける」行為に向かうためには、道具もあける心構えも準備しなければならないとなると、わたしの小腹は徐々に消えていくこともある。カンヅメと缶切りという道具の手間と、わたしの小腹という生理的・身体的なモノとは、密接に関係してしまっているのだ。

ゴリゴリという音も良い

缶切りの刃を缶のふちに突き刺し、カンヅメの側面の溝に缶切りの支えの部分を引っ掛けてゴリゴリと刃で裂きながらカンヅメを回して封をあける。時にこの「あける」手間と面倒くささを楽しんだりすることもある。幼い頃、母とケーキを作る時、カンヅメをあける仕事はわたしの専業で、特別な「あける」だった。今では、カンヅメをあけるぐらいの作業の中断がちょうど良い休憩になることもある。モノ(カンヅメと缶切り)と人(わたしの小腹)は、こんなにまでも複雑に絡み合っているのだということを、あらためて実感させてくれる。

生活は多くの「あける」に囲まれている。必要な量を計ったり考えたりせずに使えるという利便性は、分けられ封がされることで成り立っている。それとともに「わたしの小腹」は、どのように包装されたモノであるのかということと「あける手間」によって「実体」になっているのかもしれない。

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