少なくとも、わたしは。

Nao Kokaji
exploring the power of place
4 min readJul 10, 2018

「時間の軸が揺れた。」

村上春樹の小説『神の子どもたちはみな踊る』に収録されている短編「蜂蜜パイ」に出てくる一節だ。それも「窓辺のカーテンが風にそよぐように」と綴られている。主人公があることをきっかけに、ふと、じぶんが若かった頃に引き戻され、当時と同じ感覚になるというのが、この一節に至るまでの文脈である。

果たして、「時間の軸が揺れる」とはどういう感覚だろうか。わたしは今まで、「時間の軸が揺れる」といった経験を味わったことがあっただろうか。この表現を、ふとした瞬間にすっと過去に引き戻されることであると捉えるならば、イエスと言える。

それはたいてい、年に2回ほどある。デジャヴのような瞬間だ。ほんの1分もないぐらいで、「この感覚、前にもどこかであったな」と頭の片隅ではきちんと理解できる。そして、少しぼうっとした後、すぐに我にかえり、いつの出来事だっただろうかと記憶をたどるのであった。“それ”はほとんどが、少し肌寒く晴れた日の静かな午後で、じぶんの部屋でひとり、作業をしている時に起こる。じぶんが今の時間軸に乗っかっていないような不思議な気持ちになる。

ちょうど先日、夏のはじまりにもかかわらず、少し肌寒い日があった。その日の昼下がり、しんと静まり返ったじぶんの部屋で片付けをしていた。

その時、すっと、時間の軸が揺れた。

肌寒い日のわたしの部屋

過去を思い出す作業は面白い。それが思い出そうと思って思い出すものであっても、”それ”のように、ふとしたきっかけで思い出されるようなものであっても。

20年間生きてきただけでも、積み重ねられてきた過去はたくさんある。たしかに、そこには誰にだってあるような、思い出したくない嫌な思い出もある。しかし、それだけではない。じぶんにとって大切な人との思い出も、純粋に忘れられないほど楽しく、記憶に残しておきたいと思った思い出もある。岐路に立たされたときに決断できた自分自身を誇らしく思える思い出だってある。

写真を撮ることだって、文章を残すことだって同じだ。わたしにとって、写真や文章に収めるという行為は、しばらくすると忘れてしまうような思い出を閉じ込めておくためのもの。いつかのわたしが過去を振り返りやすくするため、いつか過去になる今を残しておくためのものだ。

よく「過去と他人は変えられない。未来とじぶんは変えられる。」ということばを耳にする。最近、このことばの「過去と他人は変えられない。」という部分に疑問を持つようになってきた。過去にとらわれていないで、矢印は常に前を向いているべきだという話なのかもしれないが、それとは別に、今から変えられる過去もあると思う。今から変えられる過去とは、人が無意識のうちに頭の中で書き換えている過去である。過去の思い出は、上書き保存されるのだ。それもわたしたちにとって都合よく。それは決して悪いことではないと思う。良い過去を振り返ることが今のじぶんに力を与えてくれることだってあるからだ。若さゆえの考え方かもしれないが、今はこれでいい気がする。

時はうつろう。そして、人の記憶は意外と曖昧だ。だから、過去を思い出すのは面白い。わたしにとって、年に2回ぐらいおとずれる“それ”は、今までたどってきた過去、そして、人生を振り返るためのきっかけなのである。はっきりとはわからないけれど、きっとじぶんの中にある価値をはかるものさしの一部になっているであろう過去を大切にしたい。

時に、窓辺のカーテンが風にそよがれるように現在と過去の間をゆらっとしては、また吸い寄せられるように我にかえる、ということを繰り返して生きてゆくのだろう。少なくとも、わたしは。

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