島らっきょうの季節になると

Sakura Shiroma
exploring the power of place
4 min readFeb 19, 2017

もうそろそろ、「島らっきょう」の季節がやってくる。「池間のおばぁ」から、らっきょうが届く時期だ。スーパーなどで売っている、大ぶりの「島らっきょう」でなく、少し若い小ぶりの「島らっきょう」が届く。大きならっきょうは、天ぷらや酢漬けにはもってこいだが、私の大好きな塩漬けにするには、小ぶりな若いらっきょうのほうが辛すぎず、柔らかくてちょうど良いのだ。

そんな、らっきょうを送ってくれる「池間のおばぁ」は沖縄本島から飛行機に乗って30分から40分。そこから、また車で1時間弱。宮古島の北にある一本の橋を渡ってやっとつく場所。近いようで、少し遠い「池間島」に住んでいる。おばぁの住む「池間島」には、信号機が一つしかない。学校も中学校までしかない。島の中にはたくさんの畑があり、港にはたくさんの漁船がとまっている。農業や漁業がさかんに行われているこの島には、沖縄本島では味わうことができないとてもゆったりとした空気が流れている。

きれいな海と池間大橋

小学校低学年の頃まで、よく私はおじぃとおばぁの住む池間島で夏休みの少しの期間を過ごしていた。小さな頃の私にとって池間島で過ごす時間はとても新鮮で、楽しい時間だった。おじぃとおばぁの家に行くとアイスキャンディーが用意されており、それを食べる。食べながら海まで歩くのが池間島に行ったときは恒例だ。水着を着ずに半袖と短パンで海に入る。それが地元民の海での楽しみ方だった。潮が引いたときにはおばぁとサンゴ礁を踏んでサザエやシャコガイなどの海の幸を取りに行く。長年潮干狩りをしているおばぁは貝を見つけるスピードがとても早くて、小さい頃の私は見つけられないことを理由に拗ねて帰ってしまったこともある。おばぁの家の下には小さな畑があって、そこにある自家製の野菜をよく取らせてくれた。雪だるまみたいになった赤いトマトや、ピーマンなどはもちろん、小さならっきょうを取るのも小さい頃の私の仕事だった。おじぃに漁船で連れて行ってもらっていたバリアリーフの広がる沖合で泳いだり、釣りをしたことなど、池間島で過ごした時間は一生忘れられない思い出だ。

私の習い事が忙しい。受験がある。いろんな言い訳を並べて池間島にあまり行かなくなった頃、池間島のおじぃが亡くなった。島で一番の漁師だったおじぃの船に乗って泳ぎに行くことも、釣りをすることもできなくなった。「もっと話しておけばよかった」とか「もっと送ってくれた魚を食べておけばよかった」とか、後悔ばかりが残っている。おじぃは亡くなるまでずっと「さくらは、はかしゃ(博士)になるんだよ」(偉い人になるんだよ)とよく言っていた。

おじぃが亡くなってから約6年の月日が経って私は、上京してきた。おじぃが亡くなってから何年かは、おばぁはよく沖縄本島に遊びに来ていたが、私が上京する2,3年前から、おばぁは足腰の調子が悪くなり沖縄本島に遊びに来ることも少なくなったし、島らっきょうもあまり送られてこなくなった。それからと言うもの、私がおばぁと関わる機会はめっきり減った。高校生になって余計に池間島に遊びに行く時間もなくなり、おばぁとは電話でしか話さなくなった。おじぃのときにたくさん後悔したはずなのに、母に「電話しなさい」と言われるまで電話をしなくなった。電話をするといつも「いつ池間に来るね〜?」(いつ池間島に来るの?)と言われるのが少し嫌になっていた。

孫にかこまれるおばぁ

そんなおばぁに久しぶりに会いに行ったのが3年前の大学一年の夏。おばぁの「米寿」のお祝いのときに、沖縄に住む親族一同おばぁの住む池間島に集まった。おばぁの長生きを願ってお祝いをした。久しぶりにみんなに会えたおばぁの顔はとても柔らかくて、幸せに満ちた顔をしていた。そんな夜、おばぁはふと思い立ったかのように、おじぃの祀られている仏壇に向かって「おじぃ、もう私をいつ迎えに来てもいいからね。今日が良いさ〜。みんなが周りにいるからね〜。」と手を合わせていた。おばぁと電話をすることすら嫌になっていた自分を少し恨んだ。家族と離れた島に一人で暮らすおばぁの寂しさは、計り知れないものなのだとこの時実感した。

今年ももちろん島らっきょうは届かなかった。おばぁ足腰の調子があまり良くないと母から聞いた。家の庭に出てみると島らっきょうが植えられている。もうそろそろ食べごろらしい。

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