広がるリビングルーム

Mao Kusaka
exploring the power of place
4 min readJun 19, 2020

「オンライン飲みしようよ」と誘われると、自然とマスクをしてあの公園に向かうようになった。本来は飲屋街なのにも関わらず、シンと静まりかえった道を抜けて、すぐ近くにある人気のない公園を目指す。「これが大阪だよ~」と上京してからできた友達に、テレビ電話で道中を見せて回るのももう何回目だろう。

緊急事態宣言を受ける直前、予定されていた卒業式や友達との約束はキャンセルになり、新しく決まったばかりのアルバイトも当面休みになった。このまま一人暮らしの家にいても時間を持て余して仕方がないと思い、ふと思いたって、大阪の実家に帰省することにした。春目前ではあったもののまだ肌寒く、セーターを数枚だけ持って新幹線に乗った。その日からすっかり季節は変わった。新幹線に乗ったあの時は長くて10日くらいの滞在だろうと予想していたのに、その後緊急事態宣言や外出自粛規制延長が立て続いて、ずるずると未だ私は実家で過ごすこととなっていた。実家といえども、5年前に上京した私に残された部屋はない。寝起きするだけなら、と帰省してすぐに母親の寝室の角に簡易的な寝具を整えられたのだが、その後スペースのあるリビングルームで、各々のオンライン授業や在宅ワークがバタバタと始まり、私は家のなかでテリトリー難民と化していた。日を追うごとに、私は一人暮らしの開放感と身軽さに懐かしさが募らせていた。

なんとなくその息苦しさに耐えられなくなって、久しぶりに外へでて散歩してみることにした。長期間家にいたせいか、肌に触れる日光が心地よく感じた。少し歩くと、家の近くの公園にたどり着いた。新緑が芽吹いてきて気候も過ごしやすい季節にも関わらず、人気はない。一休みするのにちょうど良さそうなベンチを見つけて、コンビニで手早くアイスコーヒーを買ってきてそこに腰掛ける。そこで小一時間携帯で動画をみたり、友達に返信をしたりしていただけなのに、突然始まった共同生活の家に篭りっきりだった私にとっては、どこか一人暮らしの快適さを思い出すように感じた。その後も、ベランダに椅子を置いて読書してみたり、マンションのエントランスにあるちょっとした机のあるスペースで作業してみたりと色々試みたが、家族の目や人通りが気になったりして、結局またあの公園に戻っていた。日中にオンライン授業が終われば、歩いていってそこで休憩したり、パソコンを持っていって作業もするようになった。最近は晩御飯をすましてから、そこへ行って夜風に当たりながら友達と電話することも日課になった。つい最近、授業の合間にそこへ向かうと、いつものスペースで仕事をする母に出くわす、ということもあった。聞けば、母もリラックスしながら雑務できる場所を探していたとのことだった。

6月上旬の現在になって、徐々にその公園では、ベンチに腰掛けてギターを弾く人や、カップ酒片手に遠くを眺める人を見かけることが増えた。その誰もが、日常の慌ただしさや先行きの見えない不安から抜け出して、ほっと一息つきながら1人の時間を楽しんでいるように見えた。そんな彼らをみながら、時々彼らのリビングルームがそのままこの公園に移動したように感じるときがある。気になって、広辞苑で「リビングルーム(居間)」と調べてみると、「家の中で家族がくつろいだりして、ふだんいる部屋」とあった。そんな文面をみながら、このコロナ禍の現在において、私は人とのつながりを求めて帰郷したにも関わらず、それに逆向するようにパソコンや家から離れて1人で静けさに浸る時間と空間を求めていたことに気がつく。私のリビングルームは、その意味と物理的な範疇を超えて少しずつ広がり始めているのかもしれない。

ここが最近の定位置。

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