矛盾する変化

Mariko Yasuura
exploring the power of place
4 min readJul 10, 2017

上京してから3年目に突入している。道産子の私にとって、関東のこの暑さは溶けるような気温だ。北海道の夏は、最高気温が25度を超えるだけで立派な猛暑日だった。しかし今では、30度を超える暑さのなかでもなんとか普通通りに生活を営むことができている。私も都会人になったのかな、なんて思いながら、私は今日も、自分の部屋のエアコンの電源を入れ、温度を下げた。

高校3年生のときのわたし(前列中央)

上京して初めての夏のことは今でも鮮明に覚えている。あの時は、何にでもなれる自分を夢見ては、現実の自分とのギャップに戸惑って、今振り返ると重度のホームシックにかかっていたのだと思う。上京するまでの自分は、地方都市の、小さな世界で輝いていただけに過ぎなかったということに気がづいたとき、自分の周りの人々の存在がキラキラ眩しすぎて、どうしても、何をしても、辛かった。そしてさらに、周囲の環境に馴染めない自分がいるという事実にもショックを受けた。というか、その事実が最も辛いことだったかもしれない。同じ地方都市出身のあの子は、この街にうまく馴染み、楽しそうに、充実した生活を送っているのに、私はそんな生活を送れていない。私にこの街は大きすぎるのだろうかと、煮え切らない気持ちを何度も反芻していた。

それからだろうか。それまで自分の中で確かにあった、心の奥底に流れていた、みなぎる自信がどんどんなくなっていくという現実を覆い隠すようにして、私は自分の本心を他人に表現していくことが少なくなっていった。いつもどこかで、他人との間に距離を置く癖がある。そして一歩引いたどこかで、目の前の世界を見るようになった。この癖はもうずっと前からのものではあったが、あの夏のホームシックを境に強くなっていった気がする。

そんな夏が過ぎて、1年が経ったとき、私は新しいコミュニティに所属するようになった。そこでは、たくさんの人々がいて、そのたくさんの人々が、それぞれにお互いを認め合い、理解し合っているような、そんな空間がある。そのコミュニティに所属した当初は、どこか一歩引いた、冷めた自分がいることに、罪悪感を抱き、自己嫌悪になることもあった。しかしそこで出会った人々はそんな私を歓迎してくれて、受け入れてくれた。そしてその一歩引いて物事を見つめる私のスタンスを、私の個性とさえ思ってくれた。こうして、そのコミュニティで自分が認めてもらえたと初めて感じたとき、自分のなかで程よいゆるみが確かにでてきたことを実感した。それまでの、他人と比べてしまう自分はもうおらず、自分の本心が明るみに照らされないようにと、庇をかけ、覆い隠していた部分を、少しずつオモテへと出していけるようになっていった。

この出来事は、これまでの私の価値観を緩やかに否定すると同時に、肯定しているような、そんな出来事であった。この出来事のおかげで、自分の中では確かに考え方が変わったのだが、その変化は、自分をありのままに表現しても良い、自分の考え方を無理に変えなくても良いという、一見矛盾があるような変化だった。他人との距離を置くというその癖は、いままでの私の言動、思考の蓄積であり、ネガティヴな視点で否定する必要はないということを教えてくれた。過去の蓄積の結果である、私のこのスタンス、癖は、他人に対して、自分を見せないよう、バタンとドアを閉じているような感覚でいるわけではなく、 人と適切にコミュニケーションを取るために、程よく自分をコントロールするような、そんな感覚だ。

こうしてポジティブに自分のことを見つめられるようになったのは、上京して1年後に入ったコミュニティのおかげである。北海道に帰りたい、この街は私が生きる場所ではないと悲観的になっていたあの夏は、おそらく、きっともう2度と訪れないだろう。私はあの夏から少し変われた気がする。

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