恵比寿系女子

Mao Kusaka
exploring the power of place
4 min readDec 19, 2019

人は言葉があってから考えることがある、とふと考える。考えた末に言葉を見つけるのではなく。

数年前、好きなタイプは恵比寿系女子であると公言している友達がいた。会話の合間だったからか、当時はさほど気にすることもなかった。ああこの人は仕事ができるカッコいい系の女の人が好きなのかぁ、とだけ思ってその場を終えた気がする。しかし、振り返ってみると「恵比寿系女子」とはなんだったのか。共通の知り合いに恵比寿出身の女の子がいるわけでも、お互いよく恵比寿を訪れるでもない私たちの間では、何のイメージが共有されていたのだろう。

そんなことも忘れ、先日女友達と恵比寿で飲むことになった。まだ予約していた店に向かうのは早いので一旦軽く飲むか、と言う話になり恵比寿に詳しい友達先導で、入れる店を探す。金曜日だっただろうか。私たちのように私服姿の若者は珍しく、仕事終わりのサラリーマンやOLがどっと横断歩道の反対側から押し寄せてきていた。数分歩き、カラフルなゲート前にたどり着く。その怪しげな趣に圧倒されつつあった私に、友人は「ここが恵比寿横丁だよ」とだけ告げ、促されるまま中に入る。ところ狭しと並べられた店々と、裏返されたビールケースに座る人々の間を小さくなりながら一列で歩く。あちこちから呼び込みの声が聞こえ、赤提灯が揺れるどことなく浮かれたその雰囲気は、祭りのようにも感じられた。

私自身、「赤提灯系」と呼ばれる居酒屋や横丁に精通しているわけではない。しかし、行ったことのある新宿の「思い出横丁」、浅草の「ホッピー通り」や吉祥寺の「ハーモニカ横丁」と比べると、仕事終わりの人々だけでなく学生と思わしき若者客が多い。横丁のサラリーマンたちがずらりと歩く光景を思い返すと、その客層に意外性すらあった。なんとなく気になって調べてみると、市場を飲食店プロデューサーによって2008年に若者向けにリノベーションされたものらしい。故に、そこへ出会いを求めてやってくるのであろう、「赤提灯系」に来るにしては少々小綺麗すぎる若い男女がそこにいたのが印象的だった。その昭和感のある内装と、派手できらびやかな女性の服装と態度のコントラストが今でも印象に残っている。

結局その夜は、東口から3分ほどのメキシカンダイニングに落ち着いた。人気店ともあり、午後9時を過ぎても多くの人で賑わっていた。その夜の目的は、1年間アメリカへインターンに行っていた友人の凱旋祝いをすることだった。なので、数日前に「〇〇ちゃん、おかえり」と書かれているプレートを注文していたのだが、注文が通っているか不安になり、トイレに行くことを装って厨房に向かう。対応してくれた女性は、テキパキと話す刈り上げた髪を紫に染めた女性だった。「どこからの帰国なの~?」と元気よく対応してもらったのも覚えている。サーブしてもらうタイミングも、チャーミングな思い出だ。こちらが頷くと、ウインクが返ってくる。それを合図に、店内の照明が消え、絢香の『おかえり』が流れる。そして、彼女が「おかえり~!」とラテンなノリでプレートを運んできてくれる。祝われる当の本人に悟られることのないまま、無事サプライズは成功することができた。

その日以来、「恵比寿系女子」の認識は彼と通じあっていたのだろうか、と度々不思議に思う。日常の中で、言葉で認識しあっていると思っていても実はそうでもないこともある。そう思えば、「恵比寿系女子」の、その実態は意外とあるようでないのかもしれない。今回恵比寿というまちを通して出会った女性たちはみな「恵比寿系女子」として括られるのだろうか。だとすると、その実態の振れ幅の大きさと掴み所の無さが、恵比寿というまちを表しているのかもしれないと考えていた。

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