愛おしき日々は坂道と共に

「梅見坂 思い出いっぱい 下り道」

小学生の頃に私が詠んだ句を今でもはっきりと覚えている。私にとってその坂は、物心がつくかつかないかの頃から今にいたるまでの祖父母との記憶が詰め込まれた場所であるとともに、歩くたび十数年の時の流れを感じる場所でもある。

私の家から祖父母の家までは徒歩3分。それぞれの家の間の道には坂が横たわっているのだが、それは私から見れば下り坂、祖父母から見れば上り坂だ。幼い頃から毎日のようにその坂を往復している私にとって、徒歩3分という絶妙な距離は我が家から「出かける」という行為に値しないギリギリのラインである。母から頻繁に頼まれる「おかずのおすそ分けを届ける」というおつかいでは、ラップをかけたお皿を袋にも入れずむき出しのまま持って届けることもあるし、鍋ごと抱えて持っていくこともある。そして、その時の私の足元は冬であっても裸足にサンダルであることが多い。5分かかる距離であったなら私の行動はまた違っていたのだろうが、3分であることが良い意味で私の気持ちを緩めていた。

私と祖父母の家を結ぶ坂、梅見坂は自然に彩られた美しい坂だ。年が明けるとどこよりも早く梅の花が咲き、梅雨時には色とりどりの紫陽花に彩られ、秋には坂から見える向かいの山の紅葉が美しい。そして向かいの山が薄紫に染まると、そろそろ山桜が咲く頃である。

そんな梅見坂を、保育園の頃は祖父母と手を繋ぎ歌を歌いながら歩いた。春を先取りして鳴くウグイスの声を真似てみたり、傍に生っているカラスウリを祖父に肩車してもらって採ったりもした。 小学生になると、学校帰りに友達を引き連れて祖父母の家に遊びに行き、迎えに来た母や友達のお母さんたちまでも交えておしゃべりをしながら皆で歩いた。 中学生の頃は、歩きながら「キツイキツイ」と呟く祖父母の背中をぐんぐんと押しながら坂を上った。高校生になると、体力が落ちた祖父母は坂の下から大きく手を振って家に帰る私を見送ってくれるようになった。そして大学生となった今では、双方の家を歩いて行き来することが困難になった祖父母を、免許取り立ての私がこわごわと車を出しては送り迎えをするようになった。 坂の景色が春夏秋冬一年のうちで少しずつ変わっていくように、私たちの人生も少しずつ坂の一部に溶け込んで彩られ、少しずつ時を重ねて老いていく。

私を坂の上まで送ってくれた祖父母の背中をいつまでも見ていたあの頃

かつて私にとってはスーパーマンのように頼もしく、困った時になんでも解決してくれる存在であった祖父母は、大病を患ってからというもの今は認知症の症状もあり毎日の薬を自分できちんと飲むことすらできない。そのため毎日誰かが薬を飲ませてあげる必要があり、私は日々梅見坂を駆け下りる。他のことに追われて時間と心の余裕がない時は気持ちが焦ることもあるが、それでも祖父母の家に行くことを苦に思ったことはない。それはきっと、自分たちでできることがどんどん少なくなってきた今でも、祖父母の中にある本質的な優しさが変わらぬものであることを知っているからだ。 私が家で授業を受けている昼間の時間、毎日のように何度も家の電話が鳴る。またかと思いながらも電話口に出ると、決まったように聞こえてくるのは祖母の声。

「ちゃんとお家でお留守番できているのね。よかったよかった。安心したわ。」

何度も聞いたことのあるセリフである。祖母は私が幼い頃、私が家に一人でいる時間によく電話をくれてはこの言葉をかけてくれていた。包み込んでくれるようなその優しさは、昔から変わらぬどころかますます深まっているようにも感じる。変わるもの、変わらないもの、時は淡々と流れていき思い出だけが積み重なっていく。 今日も私は梅見坂を駆け下りる。明日も駆け下りるだろう。 私にとってこの3分の距離は限りなく愛おしい。

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