所属感が足りない

Koichiro Yasuda
exploring the power of place
5 min readMay 19, 2020

緊急事態宣言が発令されてから約一ヶ月が経った。

家で本を読んで、映画を見ているだけで環境が変わった。家にいただけなのに環境が変わった。僕は今まで、自分自身を取り巻く環境を変えるには、何か行動を起こさないといけないと思っていた。逆に言えば、何か行動を起こせば良くも悪くも環境は変わると思っていた。インターネットが普及した現在では、家の中にいながらあらゆる人と交流できるようになり、家から出なくても環境を変えられるようになっている。しかし、僕は本当に何もしていない。強いて言えば、読書をしていた。読書をしているだけで環境が変わるような世界になってしまったのかと疑ってしまう。

今まで僕がそれに気づいていなかっただけで、環境というものは家の中で何もしなくても変わるもの、変わってしまうものだった。僕が何もしなくても、googleで簡単に検索できるようになったし、zoomで簡単にテレビ通話ができるようになった。そう考えると、僕の環境は絶えず変わっていた。しかし、なぜか今回の環境の変化に僕はうまく対応できないでいる。

いつのまにか僕の身体は、こころは、今まで自身のまわりに当たり前のようにあったはずの環境に置き去りになっていた。環境というものは、現在の自分の周りにあるものであるし、「環境に置き去りになる」という言葉はおかしな表現だが、現に僕はそう感じている。それは、絶対に間に合いたい電車に乗り遅れてしまって、その電車をホームで立ち尽くし見送る感覚にも似ている。現時点では置き去りになっているものの、後から来る電車に乗れば追いつきそうでもある。次の駅で待っててくれるとありがたい。

それでは、僕が感じている「置き去り感」はどこから生まれるのか。僕は、主に2つの要因から「置き去り感」が生まれてしまったと考えている。

1つ目は「環境」に区切りが付いていない点だ。

僕の近況を簡単に説明すると、コロナウイルスの影響による環境の変化だけでなく、今年の3月に大学を卒業し、4月に他大学の大学院に進学(入学)した。そんな別れと出会いの季節にコロナウイルスはやってきた。その影響で卒業式は当初の予定から大幅に改変された変則的なものとなり、謝恩会(お世話になった先生方に感謝を伝える会で、僕の学科の伝統でもあった)はなくなり、入学式は9月に延期となった。これらの別れと出会いの象徴とも言える行事は「人」との別れと出会いだけでなく、「環境」との別れと出会いにも区切りをつけていたことに今更ながら気付かされた。

また、周りの友人がほとんど就職したことも関係しているように感じる。つい先日まで、何時であろうと連絡をすれば雀荘に集合したり、こちらから連絡をせずとも遊びの誘いの連絡が来るような環境にいた。しかし、その環境(友人たち)はもうここにはなく、現在ではコロナウイルスの影響で、卒業式を境にぱったりと、綺麗に会わなくなってしまった。僕は大学の環境に置き去りにされただけでなく、友人関係という環境にも置き去りにされている錯覚に陥っている。もっともコロナウイルスは関係なく、僕が勝手に都合よくコロナウイルスのせいにしているだけかもしれないが。だとしたら、かなり寂しい。

なんとなく卒業したような感じで、なんとなく入学したような感じで、一体僕は今どこにいるんだろう。

2つ目は「物理的な所属感」が欠けている点だ。

これは、置き去りにされた要因と言うよりは、新しい環境に対応できない理由だ。ひとつ断っておくと、新しい環境に馴染めないとかではない。研究室では、週に1、2度オンラインで集まり、5月10日の時点で6回もオンライン上で集まっている。しかし、自分が所属している研究室だと胸を張って言えない感覚がある。研究室のみんなは優しくて面白い人ばかりだし、すでに同期には助けられっぱなしだ。研究室のメンバー同士の交流も、様々な機会があり、この状況下においてはコミュニケーションが取れている方だとも感じている。僕は、今の自分に足りないのは所属感のような気がしている。それも、場所に依存するような物理的な所属感である。

僕はこの所属感の欠如に、先ほど述べた環境に置き去りにされている感覚を感じているのだ。つまり、僕にとっての環境は所属感に強く依存していたのかもしれない。だからと言って、オフラインで集まれる日をただ待つのもつまらないので、所属感を得る日、胸を張ってこの研究室に所属していると言える時まで、自分自身を少し観察をしてみようと思う。

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