手紙のはなし。

Kiyoto Asonuma
exploring the power of place
4 min readDec 9, 2016

ぼくは毎月1度、「手紙」を受け取る。

その「手紙」には切手が貼られていない。宛先の住所も、差し出し人の住所も書かれていない。さらに言うと便箋さえも入っていない。「おいおい、それは果たして手紙なんかい」という声も聞こえてきそうだが、調べてみると、どうやらぼくの受け取っているものも立派に「手紙」と呼べるものらしい。

種明かしをすると、それはアルバイト先(個人経営のおでん屋さん)のオーナーからぼくに向けて書かれた手紙だ。毎月1回の給料袋、というか普通の銀行の封筒なのだけれど、そこに書かれている、3,4行の手紙。いつもメッセージと共に封筒に入っているのは現金と給与明細。封をしているのは、のりでもかわいいシールでもなく、ホッチキスだ。

表にはいつも平仮名で名前が書いてある。透けて見えるのは給与明細。

ぼくがこのお店でアルバイトを始めたのは大学に入った年の5月。6月に初めてアルバイト代をもらったとき、ぼくはこんなメッセージが書かれているなんて全く想像していなくて、ただ単に今時珍しく手渡しであることが嬉しくて、勢いよく封を開けた。いや、開けてしまった。

ああ、なんてバカなことをしてしまったのだ、と今では思う。31通を数える手紙の、大切な、記念すべき1通目が破れてしまったからだ。あれ以来、ぼくは慎重に封を開けるようになり(それでもよく失敗する)、アルバイト代を確認するよりも先に、この手紙を読むようになった。

『最近はきよと話す時間も少なくなってきて、ここで何を伝えようか思いつかないんだけど、しいて言えばこの店で出会ったサーフィンと、スノーボードはこれからも続けてね。』

先日受け取った、31通目の手紙に書かれていた内容だ。

アルバイト後に手渡され、家に帰ってから、また、慎重に封を開けた。「たしかに最近はゆっくり話すことも少なくなったな」となんだかこの文面がすごく心に響いて、ふといままでもらった手紙を読み直してみた。わざわざ取り出して読み直すことは、実は初めてのことだった。1通読むと止まらなくなり、しまってあった手紙たちを次々に出して、読み直した。そして、そこに並んでいることばを眺めながら、たくさんのことを思い出した。

昨年7月に受け取った手紙。ぼくが新たな挑戦について相談していたとき。

アルバイトを始めたてであたふたしていたとき、なかなかオーナーとの距離が縮まらないと思っていたとき、初めて一緒にサーフィンに行ったとき、自分の夢を相談したとき、新しいチャレンジを始めたとき。「イベント」と呼べないような些細なやり取りがありありと思い出され、それと同時にそのときに抱いていた気持ちまでもが再び自分の心の中に広がっていくのを感じた。オーナーの手によって書かれたそこに、間違いなく大学に入ってからの、約二年半のぼくがいた。

すべてを読み終え、封筒のシワを丁寧に伸ばし、再びきれいにまとめて棚に戻した。

「SNSの時代」である今日、手紙はもらうと嬉しいけれど、なんだか少し照れくさかったりもする。いまでもぼくはオーナーに面と向かってこの「給料袋の手紙」について触れたことはない。

でも個人的には、もらうよりも書くことのほうがもっと照れくさい。日常的に会う相手だと尚更だ。手紙を書く、ということは、物理的な「手間」と、この「照れくささ」というハードルを跳び越えることだと、ぼくは思っている。「募る想い」は手間を簡単に跳び越えさせる。でも、想いが募れば募るほど、照れくささのハードルは上がっていく。

実は、ぼくからオーナーに正真正銘の手紙を書いたことが、1度だけある。正確に言うと、サーフトリップに連れて行ってもらったお礼の手紙だった。白い便箋にメッセージをしたため、銀行の袋ではなく、きれいな白い封筒の表に宛名を書き、渡した。まるで初恋のひとへの告白のようにもじもじしながら渡したその手紙と再会したのは、ご飯に招待されたオーナーのおうちで、だった。テレビの上に、写真のように丁寧に置かれた手紙を見たとき、それがオーナーの家族のなかでちょっとした話題になったことは容易に想像できた。

ぼくが書いた手紙も、ひょっとしたらひとつの思い出の「記録」になっているのかもしれない――。そんな風に考えると、手紙は、ぼくが跳び越えたハードルよりもずっと高いところにいるような気がして、やっぱりなんだか少し照れくさかった。

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Kiyoto Asonuma
exploring the power of place

京都生まれです。だからきよとです。元牛飼いで現大学生です。