新たな公園との距離

1週間前のある日、とてつもない眩しさと騒音で目がさめた。寝起きがとても悪い私が、2階まで起こしに来る母の声以外に自力で起きることはそうそうない。眠い目をこする暇もなく窓の外を見ると、一面木の葉っぱだったはずの景色が真っ青な空になっていた。何がおきているのか分からないまま1階のリビングへ行くと、家と隣接している公園で草木が刈られていることが外から分かった。この公園と家の間には低い柵が設けられているものの、柵の一部はドアになっていて、開けて一歩踏み入れれば公園に入ることができるため庭のように思っていた。

眩しさの原因は家の前を生い茂っていた木々がほとんど根こそぎ刈られていたことだった。母は「日当たりが良くなって、良かったよね。」と言ったが、私は椅子やソファに座ってテレビを見ようにも寝ようにも、眩しくて落ち着かなかった。カーテンを閉めようかと立ち上がったけれど、業者の人たちはすぐそこで作業をしているから、窓の近くで目が合って思わず立ち止まってしまった。仕事だから騒音は仕方ないし何日も続くわけではない。眩しさもいずれ慣れるし心地よくなるだろう。それよりもカーテンを閉めることで、何年も庭のように思っていた公園を、業者の人を通して拒んでいるような気がして、申し訳なさといたたまれない気持ちになった。

カーテンを閉めることはやめたものの、目線と同じ高さだったり上に見えたりする業者の人々との距離感が掴めなくてずっとソワソワしてしまった。話すことはなくても目が合うということは家の中が見えないわけではない。私も、今までは公園にいる人があまり家から見えなかったが、今はよく見える。そのため、だらしなく過ごさないように、私もあまり外をジロジロ見ないように気をつけた。でも改修工事は何日も続くようだし、赤の他人のように過ごすよりもいっそのこと会釈するくらいの距離感がいいのか、いや、それは気まずいと感じとられるのか、と気にしすぎるほど考え続けていた。結局その時着ていた部屋着より少しきれいな部屋着に着替え、本を読んだりパソコンで作業をしたり、見られても良い行動に徹した。今まで「別に見えないから良いよ」とリビングで着替えていた私が、ここまで人の目を意識することは初めてだった。

初めて見るカラスに興味津々な飼い猫

ふと気づいたら騒音も人の気配もなかった。時刻は17時ぴったりで、どうやらその日の仕事が終わったようだった。改めて窓から外を見ると、草や木は半分以上なくなり、残っている木も枝や葉が窓に重ならないように刈られていた。さえぎるものがないから、今まで見えなかった公園の向こう側の家も見えて、向かいの家の存在に気づいた。住人の顔は分かるため、窓越しに目が合ったらそれはそれで気まずそうと余計な心配をしてしまった。いつのまにか公園は一周高い柵で封鎖され、毎日聞こえる犬の散歩やテニスをしている家族の音もなく、今までいなかったカラスが公園にたむろしていた。たまに来る野良猫や2匹のたぬきはどこにいったのだろう。今までの様子とはうって変わり、まるで新居に引っ越してきた気分になった。

きりかぶとトラクターとタンクのようなものが公園に出現した。砂場は掘り返されている。

後日外出したときに塀に囲まれ、誰も遊ばない遊具とショベルカーやトラクターがある公園を見て、私が公園に拒まれている気がして寂しくなった。公園の横の道路から、シャッターを閉め忘れている家の中の様子がなんとなく見え、「ただいま〜」と公園を突っきってすぐに言いたかったが、「安全第一」と書かれた塀に阻まれ、もどかしい気持ちになった。見えているのに会えそうで会えない謎の距離感ができてしまった。また、今まで木で見えなくて気にしていなかったが、外壁がかなり汚れていた。家の中だけでなく見た目も気にしなければいけなくなったのか、と思いながら家族に外壁の塗り直しを提案した。

今は雨が続き、改修工事は停滞している。そのため非日常な風景も日常化し、公園というより薄暗い廃墟らしくなった姿も受け入れられるようになった。工事が終わったら見た目の変わった公園と、公園に来る人々との付き合い方を考えよう。それと、家の外壁塗り直しも業者に頼まなければいけない。

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