明日やろうはばかやろうn回目の誓い

Chika Kiyasu
exploring the power of place
4 min readMay 19, 2020

友達との通話が終わった時、私の手元にはたいていぐちゃぐちゃっとした落書きが残されている。通話でない対面の会話でも、気心が知れた人の前だとやってしまう。そのへんにあった特売品の広告の裏だとか、授業用に作ったはずのノートの隅っこだとか、落書きの痕跡が残る場所はその時々によってちがう。私は相手の声を聞きながら、頭を空っぽにしてペンを握った手を動かす。その通話時のお決まりとも言える私の癖が発動している中でも、話に集中していることは我ながら保証できるので、正確には頭は空っぽではないかも知れない。そして通話後に用済みとなった紙切れは、必要なものとそうでないものがごちゃ混ぜになった机の上の山(タピオカドリンクが入っていたカップを、可愛いというだけで洗って取っておく始末なので私の机はガラクタで溢れている)に放り出され、徐々に埋もれていく。山が崩れそうになった頃にしぶしぶ行う片付けによって発掘され、捨てられる。ここまでが私のいつものパターンである。

しかしそんな中、1枚だけゴミ箱行きの運命を免れ、私の部屋の壁に貼られている紙切れがある。

『明日やろうはばかやろう』

それは家で母から説教を受けている最中に部屋に逃げ込み、階段下からなお追って届く母の声を聞き流しながら書いたものだった。私はその時自分がなぜ怒られているのか、理解していた。

「自分のことを、やればできるもん、いつかはやるもん、って思ってるのかも知れないけど、やらないっていうのは結局できないのと一緒だからね。いつかじゃなくて、今やりなさい今。」

耳を塞ぎたかったけれど、私は自分自身のやるべきことを後回しにする性格を誰よりも知っていたし、耳を塞いだとしても私の弱さは私を離してはくれなかったはずだ。自分の弱さの代償を実感する場面はそれまで何度もあったが、私はその度に後悔し次こそ同じ轍は踏まないと誓いながらも、またすぐに弱さに取り込まれてしまうのだった。テスト前の一夜漬けはしょっちゅうだった。しかし、そんな中でも私のテストの出来はそこそこだった。むしろ一夜漬けの教科で100点だったこともあったし、学年1位だったこともあった。それが私をますます、自分はやればできるし、後回しにしてもなんとかなっているのだと勘違いさせた。課題の提出も、締め切り間際の秒単位の戦いになることが多かった。それでも、ギリギリなだけで遅刻ではないのだと自分を正当化していた。

だからこそあの日の母の言葉は、その通りすぎて、耳が痛かった。そんな状況の時でも、私は母の声を聞きながら、いつものようにぐるぐるとペンを紙に走らせていたらしい。後日発掘された紙には、花やハートの模様の中に明日やろうはばかやろうの文字も紛れていた。私はそれを机の前の壁のよく見える位置に貼った。弱さを自覚しながらも、向き合おうとしてこなかった自分を変えたかった。

しかし、長年私の中で膨張してきた弱さはなかなか倒せるものではない。それまでに培った、後回しにしても結局なんとかなってきたワルイ経験が、私の体には染み付いてた。それに大学生になり、授業にアルバイトにサークルにと生活の忙しさも増している。後回しにしているのではなく、後回しにせざるを得ないのだと思えばラクだった。いつしか、机の前に貼った戒めの言葉はただの紙切れになり、目にも入らなくなっていった。

しかし、突如出現したウイルスによって世界は大きく変わった。私の生活も変わった。ほとんど家から出なくなり、今まで私の弱さへの盾にしていた忙しさはおとなしくなっていった。その反面、自由に扱える時間は増えている。「今だ。今こそ長年の己の弱さに向き合える絶好の機会ではないのか。」私の友達も、家にフィールドが限定されてやることがなく暇だと口々に話していた。やるべきことを先に片付ける時間はたっぷり用意されているのだ。今向き合わなければ、この先も自分は変われないと私の心が言っている。何層にも塗り固められた弱さを少しずつ剥がした先には、なりたい自分がいるのだろうか。

ひとまず、授業課題を締め切り前日に提出してみた。締め切り日に時計を気にしないで過ごせるだけで気分が良い。さあ、まだまだ道は長い。

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