暇つぶし

Masaya Nakahara
exploring the power of place
4 min readSep 19, 2017

曇天続きのくせにじめじめとねちっこかった8月は9月に入るやいなや長袖を要求してきた。夏になれば時間も作れるだろうし部屋のレイアウトをきちんと考えようなんて春先には思っていたけれど、未だにベッドの横には膨らんだ段ボールが我が物顔で居座っている。食べるものも店で出るまかない以外は適当に済ませてしまう日が多く、昨日のばんごはんすら思い出せない私を不健康だなあと健康志向のあいつは笑う。寝そべりながら紅白とガキの使いをちゃかちゃかチャンネルを変えながら見てから早くも9ヶ月が経っていて、3カ月後には同じことをしているのだと思うと時の流れの速さに体がついていかない。そんなことを言ってしまえば大学に通い始めてから1年半が経ったわけで、あと少しで生まれてから20年が経つわけで。時計の針が後ろに進んでくれることはなく、ジャンプを回し読みしてカラスが鳴くから帰った日々はもう戻ってこない。

お盆はとうとう実家に強制送還されて、母方の祖母の墓参りと親戚への挨拶回りのための長野・新潟弾丸ツアーに連れて行かれた。まだ元気な祖父を連れ、祖父の実家である長野県戸隠へドライブ。七曲りを通りながら、あぁこの景色見たなぁと記憶を辿る。前訪れた時弟はまだ生まれていないし、母も更年期なんて単語を口にしていなかったと思う(思いたい)。まず倒れる前の祖母がいたのだから、もっと車内はうるさかったのだろう。そういえばバースデーケーキのろうそくも年の数だけ刺さなくなったな。そろそろ親父にもけんかで勝てるんじゃないか、いや弟に負けるかな。

祖母の墓は家からすこし離れた小高い丘の上にぽつんとある。いつか見たようなお地蔵さまを通り過ぎて、蝉の声を聴きながらいっぽずつ登る。丘から見える、たばこ畑の緑と群青の空がうるさいほどに8月を感じさせた。手入れのされていない草をむしり、線香に火を灯す。手をあわせて、「また来るよ」とつぶやく祖父の横顔はどことなく寂しげに見えた。空を飛ぶトンボの体はうっすらと紅がかっていて、差し出した人差し指にそっと止まった。母はお墓の前で、「わざわざここまで来たけどおばあちゃんここにはいないもんね。」と呟いた。きっと足が悪かった祖母はそこらじゅう自由に歩きまわっているだろうからさと気丈に振る舞っていた。線香の煙が混じった汗が背中をすうっとつたう。私は生きているうちにあと何回ここにくるのだろう。親戚の家で出された黒豆をなぜか懐かしく思った。祖母の味付けだったのだろうか。小さい頃は甘いものが嫌いで口にしなかったくせに。

寝る前に人は死んだらどうなるのかなんてたまに考えてしまってなんだか寝つきが悪くなってしまうことがある。実際問題どうなってしまうのか知りたいけれど、知ってしまえばどうにかなってしまいそうで。高3のある朝集められ、小学校からずっと同じ女の子が亡くなったことを突然先生から知らされたことがあった。関わりは薄かったにせよこの間まで同じ授業を受けていただけに驚きを隠せなかったが、自分以上に距離の近い彼女の友人らはいったいどんな気持ちだったのだろう。生き物ならば当然である死を人は生きている以上どうしても不自然に感じてしまう。悼んでも悼んでも死んだ人は帰ってこないし、死んでしまった後会えるだなんて保証もなくて。事件事故なく無病息災で順調に行けばあと数十年は生きられるこの世の中で、私は何をして過ごすのかな。ひとつひとつ年をとりながら、ひとつひとつ大切なことを忘れながら。

生まれてから死ぬまでの一人生が待合室で待っている時間だとして、閻魔だか神だか忘れたが、お医者様に呼ばれるまで恐怖に手に汗握って待つような人生はごめんだな。悪い方悪い方に思ってしまうときほど心配ごとは杞憂に終わるものだ。悩みも憂鬱も美味しそうに飲み込んで、今の自分を許せるくらいの大人になれたなら。そうして名前が呼ばれるまで、くだらない週刊誌でも読みながら過ごそうか。

お墓から見えるたばこ畑 — 長野県戸隠

--

--