「東京」という選択

Sayako Mogami
exploring the power of place
4 min readJan 19, 2018

「そういえば、おばあちゃんって東京に行けるからおじいちゃんと結婚したって話したっけ。」
「えっ何それ!!?」

この話を母親から聞いたのは今から2年ほど前。母方の祖母が亡くなって1年が経ち、50年以上祖母が住んでいた家の片付けに追われていたころのことだった。母からこの話を聞いたときに私はとても驚いた。私にとって祖母とは自立して弱い面は見せず、シャキッとしているけれど穏やかで優しいという存在であったため、そんな祖母が東京に出たいという理由で祖父との結婚を決めていたということが想像できなかったのだ。
祖父は私が幼稚園の頃に亡くなってしまったということもあり、あまり詳細な記憶というものがなかったため、これを機に私は今まで知ることのなかった祖母や祖父の過去について話を聞くことになる。

昭和4年生まれ、5人姉妹の末っ子である祖母と大正13年生まれ、4人兄弟の長男である祖父、どちらも新潟の魚沼出身だった。

祖父は昔綺麗な顔立ちをしていたのだが、無類の勉強好きで人付き合いや社交性はあまりないタイプの人だった。そのため紹介で顔合わせをしたときには、祖母としては結婚という気持ちにはあまりならなかったのだが、どうやらその後祖父が仕事で東京に出ることが決まると祖母は結婚に踏み切った、ということらしい。もちろんそれのみが理由であるとは考え難いのだが、少なくとも20代前半だった当時の祖母にとって「東京」は結婚にあたっての重要なポイントであったようだ。

「結婚なんて妥協だよ。」

なんてよく聞いた話であるが、見方によっては祖父と出会って間もない頃の祖母は、祖父の性格を妥協して「東京」を選択したとも考えられる。
ここだけを切り取ってしまうとどこか幸せからは遠く離れた結婚のように聞こえてしまうかもしれないが、祖母と祖父の夫婦生活は本人たちからしても、そして私や母からしてもそんなことを微塵も感じさせない充実した幸せなものであった。

結果的に祖母と祖父の相性はよかったのだろう。東京に上京をして仕事についてからも通信や夜間でいくつもの大学に通っていた祖父の影響を受けて、祖母も通信で大学に通い日本文学についての勉強を始めるようになった。その延長で始めた俳句は後に祖母が亡くなるまでずっと続ける趣味へとなる。喧嘩をしたことはほとんどなく、休日はよく2人で文学の展示に行ったり山登りをして過ごしていたらしい。その後生まれた私の母と叔父が学校で勉強をすることを嫌っていたことに対して首を傾げてしまうくらいに学ぶことが好きで、またそれを一緒に楽しむ仲むつまじい夫婦であった。

祖母の家飼っていた猫が祖父の方にばかりなつき自分に全くなつかないとぎゃーぎゃー泣いていた私に、あの手この手で祖母が猫を触らせようと格闘する祖母と、それを祖父がニコニコしながら眺めている光景が不思議と私の記憶に残っている。そんな断片的な記憶ではあるが小さい頃ながら祖母と祖父の夫婦の仲を知っていたからこそ、私は祖母の結婚の理由について聞いても嫌な感情は全く覚えず、逆に「おばあちゃんにもそんな一面があったのか」と当時の祖母に対して親しみを覚えたくらいだった。

言葉からはマイナスの印象を受けるが、妥協も選択のひとつだ。
そして選択そのものにはあまり意味はないのかもしれない。
祖母も当時は周りから妥協をしたと思われていたのかもしれないが、その後の彼女の生活は後悔するものではなく、今となってはその選択は妥協にはならないだろう。
きっと、妥協というものを強く感じる瞬間とはその後の結果にどこか後ろめたさを感じて、あのときもっとこうしておけば良かった、と後悔をするときなのではないだろうか。そう考えると結局、その選択が妥協だったのかどうかとは、選択をした瞬間に決まるものではなく、その後の時間の過ごし方によって左右されるものだとも考えられる。

今となっては祖母も祖父も既に亡くなってしまい、事の真相はもう誰にもわからないのであるが、きっと祖母に当時の話を聞いたとしても「そうねぇ」と笑いながら、あの頃の昔話をしてくれるに違いない。

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