死に近いという感覚はワンテンポ遅れてやってくる

野反湖、川崎の工場夜景、夜の工事現場、人通りのない住宅街。

私の好きな場所は、どこも死に近い。死にたいと思っているわけではないが、死に近い瞬間に、強烈に惹かれてしまうのだ。

高校を卒業する3日前の夜、友達3人を連れて多摩川に行った。あたりには誰もいなく、よどみなく流れる川の音に虫の鳴き声がまばらに重なる。二子玉川駅から電車が発車する音が聞こえ、少し先の車のライトは川の流れのようにどこかへと運ばれていく。ここにあるのは捉えることのできない自然とそこで生きる小さな生き物たちだ。人々の暮らしは音や光となって、遠い昔の記憶のようにぼんやりと認識する。「もうすぐ卒業だなんて信じられないね」なんてありきたりな言葉を交わしながらも、だんだんと会話がなくなっていく。静寂の中に雫を落とすようにだれかがぽつりと言った。

「なんかさ、死に近いよね」

少し間を置いて、「あぁ、わかる」と波紋が広がる。私たちが誰でどこから来たかなんてどうでもよくて、ただそこに世界が永遠と広がっていた。

2019.02.27

私たちは、権利を置き去りにして意義を問われる。それは学校教育や街中の広告からじわじわとインストールされていって、いつの間にか自分自身に対しても要求している。自分は何をしていてそれが何の役に立つのか証明しないといけないんだと。社会システムの中で機能しなければ、価値はないんだと。常に自分の価値が天秤にかけられる恐怖を抱えながら、規律正しい人混みやネットワークの中を徘徊する。そのため、存在意義という荷物をどこかへ置いてきた人はとても身軽で、魅力的だ。

ご自愛という言葉がある。文字の通り、自分を愛す、自分を愛すべき存在として大切にするという意味だ。概念として大切なのは分かるけれど、自分の存在を誰かに証明しなくてはいけないという思考がインストールされてしまった私には、自分ただ一人として大切にするというのはまだ難しい。だから私は、ケアをする(気にかける)くらいに捉えている。ストレッチをしたり洗濯物をきちんと畳んでしまったり朝ごはんに少しだけ手間をかけてみたり。自分の身体の一つひとつの動作に気を巡らすことやできたら少し嬉しいものを増やしていくこと。これはきっと、自分の輪郭をはっきりさせ、生を補強していくということだ。星野源は『恋』という曲の中で「意味なんかないさ 暮らしがあるだけ」と歌う。自分の意思と関係なく与えられてしまった生を、誰かの役に立つことによって意味づけしていくのではなく、連綿と続く暮らしのなかでただそれを確認し、観察すること。それはとても、”生きること”のように思える。

一方で、死に近い瞬間。あの多摩川の夜のように、世界が自分の身体に流れ込んできて、自分の輪郭が曖昧になる瞬間。もちろんそこでは、価値や意義なんて言葉は意味を持たなくなる。その強い解放感に恍惚としていると思うのだ。「あ、今、死に近いかも」。死に近いという感覚はワンテンポ遅れてやってくる。

生を補強することと死に近いことは、もしかしたら似ているのかもしれない。感覚的な生と死を意識するとき、それは単純な二項対立ではない。どちらも自分の存在意義から解き放たれていて、ただそこに存在できるようになる。暮らしの中で積み重ね、世界の中で揺り動かされる。洗濯物をきちんと畳んでしまったあとに、人々が寝静まった住宅街へと出かけることだってできるのだ。

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