残った繋がり、失われた繋がり

スマホが主要ツールとなって数年が経過した。

これまで「ケータイ」と呼ばれていた電話機が「ガラケー」と名付けられ、少数派に追い込まれていく。それと共に、最近行方不明なものがある。携帯ストラップだ。

かつて電車内では、ストラップつきのケータイが日常的に見かけられた。キラキラしたチャームを大量にぶらさげる女子高生、高級そうなレザーアクセサリーとしゃれこむ中年男性、手のひらサイズのキャラクターマスコットをつけた若者などなど。老若男女問わず、誰かしら何かしらのストラップを付けていた。

人々は、なぜケータイにストラップをつけていたのか。

まず、他人と自分のケータイを区別する目的があるだろう。私の場合、機種被りは何度も見かけたが、ストラップを含めてまるきり同じ人には出会ったことがない。

次に、会話のきっかけになりうると考えられる。持ち歩く小物類の中でも特にケータイは人の目にさらされやすい。そこに付けられたストラップも然り、だ。
ストラップは“わざわざ”付けるものだから、皆大なり小なりそれに対するこだわりをもっている。そのため、「それ、可愛い」「おしゃれだね。どこで買ったの?」などと問いかけるだけで、相手の思いがけない一面を発見することができるかもしれない。

かくいう私が付けていたストラップにも、ちょっとしたエピソードがあった。


筆者が長年愛用してきたケータイとストラップ

中学卒業時にケータイを入手してから、「これに合うストラップが欲しい」という観点でお店を見て回る日々が続く。

その年の8月、家族旅行で北海道に行った。父の実家がある札幌から車を走らせ、余市や積丹半島を経由して小樽へと至る、長距離ドライブ。小樽に着く頃にはすっかり日が暮れていた。

夕飯を済ませ運河付近のおみやげ街をさまよう。オルゴールの音色やガラス細工屋のオレンジの光に眠気を誘われる。そろそろ帰ろうかと思い始めた時、私の目が一気に覚めた。

店頭に立つ、くるくる回せる四角いストラップスタンド。数ある商品の中で、青い独特の輝きを放つガラス玉に吸い寄せられるように近づいた。

アイヌガラス。アイヌ民族が神事の際に身につけていたという、深い青色のガラス。おみやげ屋さんの商品はもちろん、レプリカだ。それでも、ストラップが放つ光は神秘的な力を持っていると思わせるに足るものだった。私は気持ちがたかぶるのを感じつつ、会計を済ませた。


その出会いを経て、私のケータイの相棒はアイヌガラスのストラップとなった。ケータイを取り出すと物珍しがられその度に説明をすると、興味をもって聞いてもらえる。北海道の話で盛り上がることもしばしばあった。

ケータイが顔を合わせない人同士を繋ぐものだとするならば、アイヌガラスのストラップは顔を合わせた人同士を繋ぐツールとなっていたといえる。私はいわば「コミュニュケーションの2つの神器」を常に持ち歩いていたわけだ。

コミュニケーションの2つの神器

今年の7月、私と2つの神器の関係に変化が訪れた。スマホの価格低下の状況を鑑み、遂にスマホデビューを果たしたのだ。

新しく買ったスマホは無論、ケータイとは見た目がだいぶ違う。それでも特に、私が衝撃を受けたのはストラップホルダーの不在だ。

どうやらスマホはストラップではなく、カバーやシールで個性を出すものらしい。家電量販店や雑貨屋さんに行くと、スマホ関連のデコレーショングッズが色々並べられている。

だが、全てのグッズが自分のスマホに使えるわけではない。

新たに筆者の相棒となったスマホ(左:背面 右:前面)

私のスマホは物理ボタンが背面に付いており、これの存在によって裏面全体を隠すタイプのスマホカバーは使用できない。ネットで検索すると専用カバーがいくつかヒットするが、そのバリエーションの少なさはケータイストラップの比ではない。
スマホカバーで個性を出すのは、ケータイストラップより困難なのかもしれない。


こんにち電車に乗る人々の手には、同じような姿形のカバーをはめたスマホが握られている。個性的なストラップをさげたガラケーは、もうほとんど見かけない。
その一方で観光地のおみやげ屋さんでは、相変わらず多種多様なストラップが所狭しと存在を主張している。その数は減るどころか、むしろ増えているような気さえする。それらは一体、どんな人に購入され、どこにさげられているのだろうか。かつてケータイの相棒の地位を獲得していたときのように、人と人とを繋ぐ役割を果たせているのだろうか。