母の弁当


私の母は最近、マンションの4階のベランダにプランターを並べ、野菜を育てることに凝っている。アブラムシをひとつひとつ手でつぶす。日当たりを考えてプランターを移動させる。そんな細やかな愛情で母に育てられたトマトたちはよく熟れて、毎朝10個近く収穫される。

料理をつくることと食べることが大好きな母。母のことを語ろうとすると、まっさきに浮かぶのは「弁当」なのである。

ベランダの菜園

私は、生まれたときから食物性アレルギーを持っている。

今でこそ抗体がついたのでたいていのものは食べられるし、そうでなくとも自分自身で食べられないものを見極めたり、体調に合わせて調整したりできる。しかし、卵、乳製品、鶏肉、牛肉…と食べられないものだらけの幼少期は大変だった。卵や乳製品はいろんなおかずにこっそり入っているからやっかいだ。これなら食べられるかな、と食べたものでも皮膚炎がひどくなったり、喉のかゆみがとまらなくなったり、気持ち悪くて吐きそうになったりする。小学校入学と同時にはじまる学校給食は、食べられそうもなかった。小学校1年生の私は当時、自分が食べられないものを自分で判断できなかったのだ。

そこで母は、毎月配られる材料表記のみの献立表からレシピを予想して、食べられない食材を抜いた特製弁当をつくってくれた。毎日もたせてくれるその弁当に、市販の冷凍食品は一度も入ったことがない。そのうえ、見た目や味付けまでできる限りそっくりに仕上げるという細やかさである。(それでも、実際の給食メニューとはまったく違う料理が誕生する日もあった。)

私は毎日、給食の時間になると、密閉型のプラスチック容器に入ったおかずを耐熱のうつわに移し替え、教員室へと運んだ。教員用の電子レンジで温めさせてもらうのだ。教室に戻ると、みんなと同じようにお盆とお箸をとり、温めたおかずやごはんをみんなと同じうつわに移し替える。これで、見た目は学校給食、中身は私専用、お手製弁当の完成だ。

正直に言うと、クラスの男子を中心に白熱するおかわりじゃんけんや、担任の先生が余った白ごはんでこっそりつくってくれる塩おにぎり(先生は机の中にそれ専用の塩の小瓶をしのばせている)は、かなり魅力的だった。しかし、小学生の私には、母がつくってくれる自分のためだけの弁当が何より嬉しかった。食べるのが遅いので、昼休みの終わりまでゆっくり時間をかけて完食した。


小学校6年にあがるころにはもう、私はどんな料理に自分の食べられない食材が入っているかわかるようになってきていた。最後の1年くらいみんなと同じ学校給食を食べてみたら?と言う母。母が弁当づくりを面倒に思ったわけではないのは明らかだった。

そうして私は、小学校6年で、学校給食をはじめて経験することになる。


先日部屋の整理をしていると、とある文章を見つけた。10年前、はじめて給食を食べた日について書いた作文である。厳しかった塾の先生に「ハンカチなしには読めないよ」と褒めてもらった小6なりの渾身の文章。今こうして読み直すと、語彙は増えたものの、書いてあることはほとんど同じである。

小学校6年生当時に書いた作文

「給食記念日」が何日だったかなんて、これを読み返すまで正直すっかり忘れていたが、4/11という日にちが頭にのこった。何の祝日でもないこの日は「弁当記念日」でもある。そしてきっと、「母の日」でもある。


母のつくった弁当を、いまは高校3年生の弟が持ち歩いている。

よく熟れた赤いトマトが新顔である。

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