気が遠くなるほどの近さ

日が暮れた後のヒースの丘をイメージしてもらいたい。夜の青い光に照らされた美しい花々に囲まれながら、まるで自然が自分自身であるかのように感じる広大な景色を見渡す。そのなかで、なぜか全く知らない他人が自分からだいたい50センチほどのところで体内から生暖かい吐息を排出していたとする。次第にその人物のことが気になって仕方なくなり、挙げ句の果てには美しい景色よりもその人のどうでもいい仕草に意識がとらわれてしまう。私にとっての映画館は、まさにこのような場所である。

私は映画が好きだ。小学校低学年のころ『グーニーズ』に圧倒されてからというもの、ほぼ毎日映画を見ることが当たり前の生活を送ってきた。お小遣いを握り締めてTSUTAYAへ向い、私の身長の倍ほどある棚のなか、未知の映画を求めて探検することが本当に楽しくて仕方なかった。映画に対する思いは強まるばかりで、最近はもっぱらアメリカン・ニューシネマやフランス映画に情熱を注いでいる。見たい映画のなかにはDVDになっていないことや、とても高値で販売されている場合があり、そのようなときには映画館で特集などが組まれることを待つしかない。名画座の情報サイトなどを逐一チェックしながら、まだ見ぬ名作へ思いを馳せている。

やはり映画好きなら、映画館も好きであるべきなのだろうと思う。最近は映画をどこでも簡単に見られるようになっているが、依然として映画館まで足を運ぶ人は少なくない。そもそもパソコンやスマートフォンではディスプレイの輝度によって色調が全く異なって見えるし、映画館が提供する最高の機材環境を自宅に揃えることは難しい。それに、上映前の高揚感や、観賞後の余韻は、歩くという動作を以てのみ再現されるものだ。自分の足で映画館まで行くことにより、映画が経験になる。しかし、それでもやはり、私は映画館が苦手だ。

暗闇の中で聞こえる音は、脳内を占領する。夜中の暗い部屋では窓の外から聞こえる葉擦れに敏感になり、まるで頭の中で葉っぱがザラザラと擦れ合っているかのような感覚に陥る。映画館も同じで、視覚情報が限られているからこそ、映画音響に揺さぶられやすい状況が作り出されている。一方、暗闇のなかでは音と私の距離が縮まりすぎてしまって、映画製作者の意図したもの以外にまで過敏に反応してしまう。隣に座っている人の吐息。足を組み替えるときの摩擦音や、ポップコーンの咀嚼音。そういった日常生活では気がつかないほどの微小な音が脳内でエコーし、映画には全く関係のない人物の登場によって物語は遮られてしまう。私は、他人の気配を近くに感じることが苦手だ。気配との距離が近いと、その人の心が自分の身体に入り込んできてしまうような感覚がするからである。昔からこうだったわけではないが、強い人間になりたいと思っていたら、気付かぬうちに他人と距離を保たなければいけない身体になってしまった。

バッグの中に眠っていた映画のチケット。集めているわけではない。

劇場内で他人の気配に抵抗感を抱くのは、人が存在しているにも関わらず、それをないものにして認識を拒むからである。映画館に限らず、私は何にも揺るがされたくないと思うあまり、自分の中に存在する他者を排除しようと必死になっていた。それでは気を張ってばかりで疲れてしまうため、今では自分のなかに誰がいたとしても受け入れられるような穏やかな日々を過ごしたいと思っている。最近は様々な尊敬できる人たちとの出会いもあって、徐々にではあるが、誰かと近付くことにも慣れてきた。

数年前よりは映画館にもそれなりに足を運ぶようになっている。先月も、37本見たうちの7本は劇場で鑑賞したものだった。気が遠くなるほどの近さに対する苦手意識は未だあるが、映画を諦めるほどではない。けれど、しばらくはまだ、映画館と私は奇妙な距離を開けながら付き合い続けていくことになりそうだ。

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