【求む】わたしとあなたの繋がりを

Chika Kiyasu
exploring the power of place
4 min readJul 19, 2020

パソコンの中に並ぶ、同じ大きさの長方形。みんなその中にいる。誰もが同じ枠の中に収まり、同じ距離感でしか会えなくなってしまった。誰もその枠を飛び越えては来ない。

突如現れ世界を席巻したウイルスは未だとどまるところを知らない。春の私は随分と楽観的だった。6月頃になったらキャンパスで授業を受けているであろう自分の姿を頭に思い浮かべ、学校に着て行く夏服はどうしようかなどと想像するぐらいには、ウイルスの猛威に人類がすぐ勝ることを信じていた。しかし今では、キャンパスにいる自分を想像したくてもどんな季節の服を纏わせればいいのかもわからない。私の中に思い浮かぶのは、長方形の中に入ったみんなの顔だけである。そしてキャンパスに自分が存在しない空白の期間も、せめて自分が周りとの繋がりの中に存在している事実を確かめたくなったときには、長方形がひしめく画面をたまに“カシャッ”としてみたりするのだった。

画面上であっても自分が人と繋がっていた記録をたまに残している

私の中でも人とのコミュニケーションの取り方として、パソコンの画面を介しての形が染み付いてきたこの頃。授業で先生が「わからない人は手を挙げて下さい」などと言った時には、画面上のボタンをクリックすることが当たり前になってしまい、決してその場で自分の右手を挙げたりはしない。一定の時間が経つと画面に浮かび上がるマークは自分の意思とは関係なく消えてしまう。私はいつも、いつしか勝手に消えてしまう自分の「意思表明」をどこか虚しい気持ちで眺めていた。広い講義室の中で周りをぐるりと見渡し、おそるおそる顔の横あたりの位置で申し訳程度に手を挙げてみたり、自信があるときは無駄に腕をピンと伸ばして挙げてみたり、周りに合わせ自分もその場の一員として馴染むように振る舞う。オンラインではその周囲の雰囲気を肌で感じることができないことが何よりも辛かった。いくらオンラインで皆の四角が隣同士に並び同じ情報、同じ時間を共有したとしても、それは同じ空気感をもつ「場」を共にしたことにはならないのだと思う。

しかし恐ろしいことに、その小さな枠の中にいる相手だけを見て、その人のイメージを形作りはじめている自分がいる。画面越しでしか会ったことがない人も多いが、そのような人たちに対して「この人はこういう人だろう」というラベルを勝手に貼り付けているのだ。例えば、オンラインでも躊躇せずに発言ができる人は余裕がある人なのだろう、だとか、授業中にタンブラー(コップでもペットボトルでもなく)で飲み物を飲んでいる人はしっかりした人かもしれない、だとか、勝手なイメージを好き勝手膨らませているのである。我ながらタンブラーの話は完全に私の偏見が入り込んでいる。ただ、その人の持つ雰囲気はオンライン上であっても、その口調や間の取り方で伝わってくる部分は少なからずあるため、そのラベルは180度その人とずれたものではないのかもしれない。それでも、隣に並んだこともない相手について勝手に理解が深まっていくことにはどこか落ち着かない心地の悪さを感じた。実際に会えるようになった時は、そのラベルをひっぺがし、その人についての情報を新たな気持ちで書き足せるだけの余白を頭に用意して相手に向き合いたいものだ。

そして最近一つ不安に思っているのはオンライン上でしか会ったことがなかった相手と生身でばったり会った時の対応である。私は人の顔を覚えるのがかなり得意なので、一回体育の授業が一緒になっただけ程度の相手でもコンビニなどで会うと「あ~~~!この前一緒だったよね!」ぐらいの勢いで話かけてしまう。しかし案外相手には覚えられていないことも多く、頭にハテナを浮かべさせてしまうことも多い。だからこそオンライン上で顔見知りになっている気になり、実際の対面時にテンション高く接して相手に反応をもらえなかった時のダメージをいかに解消するかのシミュレーションを勝手に脳内で繰り広げている今日この頃である。

このくだらない想像が役立つ日が来るのはいつになるだろうか。

--

--