海沿いをゆく

ふだんは、数分間隔で運行している電車に乗ることが多い。事前に時刻表を確かめておかなくても、ホームに立っていれば、ほどなく電車がやって来る。乗りそこなっても、すぐにつぎの電車に乗ることができるので、さほどストレスもない。その安心感のせいで、ちょっとした遅延を許せるようになってしまったのだろうか。「乗りそこなって、つぎの電車に乗るので到着が少し遅れます」などといったメッセージは、ごく日常的にやりとりされる。遅刻の連絡であるにもかかわらず、せいぜい5分や10分の遅れなので、許そうという気にさえなるのだ。

遠出をするとき、慣れない路線のときは、ずいぶん事情がちがう。出かける前に、じぶんの動きをきちんと確かめておいたほうがいい。先週末は、学会に参加するために島根に出かけた。東京からは飛行機、電車、バスを乗り継いで5時間。片道およそ900キロの旅だ。
やはりこのときはふだんとはちがう感覚で、何度も時刻を確認しながら動いた。なかでも電車は、1時間に1本という間隔の運行だったので、乗りそこなったらプレゼンテーションの時間に間に合わなくなる。いつものような言い訳は、通用しないだろう。電車の発車時刻から逆算して飛行機のチケットを予約し、それに合わせて、朝は何時に起きるか(つまり、前の晩は何時に寝るか)も決まる。

列車はゆるいカーブを描きながら、海沿いを走った。トンネルや木々を抜けるたびに海が見えた。すでに秋の色だ。決められた時間に900キロ離れた場所に〈いる〉ために、いくつもの段取りが必要になる。言うまでもなく、学会のセッションは何人かの参加者が集うのであるから、わずか10数名であったとしても、その全員が乗るべき電車に(遅れずに)乗ることによって成り立っているということになる。つまり、ぼくの30分のプレゼンテーションは、その場にいた一人ひとりの段取りが束ねられた結果としてつくられた時間だったのだ。


一昨年『おべんとうと日本人』という本を書いたとき、「おべんとうと移動」という章で、駅弁や旅のありようについて触れた。もちろん路線によってちがいはあるが、鉄道での移動が効率化・高速化したおかげで、ぼくたちは車内でのんびりと景色を眺める機会を失いつつある。運行スケジュールが高密度になれば、駅に停車している時間も短くなる。かつては、停車中に電車を降りることもあったし、窓越しにおべんとうを買うこともあった。もっと、のびやかな時間があった。
いまは、その余裕もなく、ホームに停まったら慌ただしく発車することが多い(窓も開けられなくなった)。風景は高速で流れてゆくので、窓の外には目が向かず、眠ったり本を読んだりして過ごす。あるいは、書類やプレゼンテーションの資料が完成していなければ、移動中もPCを開いて仕事をする。電車に乗っていること、移動していることを忘れるような環境こそが、「乗り心地」として価値を持つようになったのだろうか。

September 3, 2017

外を眺めることもなく電車に揺られているとき、ぼくたちは時間が経つのを待っている。それは、つぎに〈いる〉べき場所に到着するまでのあいだ、おとなしく待合室に座っているようなものだ。移動のしかたはさまざまだが、もっと移動している状況そのものを味わうことも大切なはずだ。

プレゼンテーションは無事に終わり、再会も出会いもあった。一泊二日の出張は、ホテルと学会の会場を行き来するだけだったが、900キロを旅してよかった。そう思った。
会場をあとにして、来るときと同じ行程を逆向きに辿りながら移動した。こんどは、右手に日本海が広がった。ふと「明日は、月曜日だ」ということが頭をよぎった。それで少しばかり憂鬱な気分になったのかもしれないが、窓の外に目をやり、ゆっくりとしたスピードですすむことこそが「乗り心地」なのだと思った。降りる駅が、近づいている。ぼくは、明日が来るのを待っているわけではなかった。😌