渋谷は、息をしている

Shizuku Sato
exploring the power of place
4 min readOct 18, 2018

私は渋谷が、嫌いだった。

正確に言うとかなり。

人人人人人人人人人。どこに行っても人がいる。見上げると首が痛くなるほどの高いビルたち。そして四方八方から迫ってくる人の話し声、信号の音、大画面から流れてくる騒音。

初めて渋谷に足を踏み入れたのは、中学1年生のときだ。渋谷のスクランブル交差点に立ったとき「これがかの有名な、、、」とワクワクしたが、それもほんの束の間。30分滞在しただけで、周りを囲む高い建物とたくさんの人に目が回った。そのせいで、高校を卒業するまではほとんど渋谷には行かなかった。というより行かないようにしていた。乗り換えでさえも、渋谷を使わないように避けていた。しかし大学生になってからというもの、サークルの集まりなどで渋谷に一ヶ月に3回は足を運んでいる。最初のうちは、待ち合わせ場所に行くのに迷ったり人にぶつかったりと一苦労。友達と会う前なのに疲れてしまうという具合だったので本当に嫌だったが、それも次第に慣れてきて、ここ最近では渋谷に行くのは避けられないのだと腹をくくるようになっていた。

そんな中、偶然出会った一つの映画作品が、私の中の渋谷の印象を変えた。それは、ソフィア・コッポラ監督の「ロスト・イン・トランスレーション」という映画だ。

高層ホテルの窓から主人公が外を眺めているシーン(引用:https://courrier.jp/news/archives/5371/

この映画は、アメリカから来たハリウッドスターと、カメラマンの旦那について来た女性がトウキョウの街で出会い心を通わせて行くというストーリーで、そのほとんどが東京で撮影されているというもの。その映画のワンシーンに、渋谷のスクランブル交差点が出てくる。私はそのシーンを観たとき、ものすごい空虚感に襲われた。お互いに触れられる距離に人はいるのに、街は音で溢れているのに、とてもとても哀しかった。映画では主人公が異国に来て感じている孤独が、渋谷の街が作り出している空虚感によって助長されており、丁寧に美しく描かれているシーンとなっていた。でもそれは、逆に言えば孤独を感じている主人公によって渋谷がどれほど孤独な街かということを浮き彫りにしているように思えてならなかった。

ビルの大画面から流れる広告やキラキラと街を照らすネオンは、そんな空虚感を消そうとしているかのように光る。昼夜問わず毎日溢れんばかりの人を抱え、ただただ物理的で無機質な人々の交差を見守る渋谷に、いつの間にか同情を覚えてしまった。それはただ単に雰囲気が孤独というだけでなく、まさに渋谷が息をして実際に感情を抱いているかのような、そんな気がした。

ハチ公前で待ち合わせをする人。忙しそうに駅を駆ける人。渋谷のスクランブル交差点で写真を撮る人。渋谷には、常に人の流れがある。常に変わりゆく風景がある。そんな流れゆく人々と、風景の変化とも一体になれていない渋谷はどこか寂しそうだ。私はそんな渋谷に、こう尋ねたい。

「君には何が見えているの?」

未だに渋谷のビルや人混み、道端のゴミ、ざわざわとした雰囲気、そういったものは好きではない。ただ、そういうものたちがそれぞれに作用することによって生み出される渋谷が持つ孤独感に、人間の持つ孤独感と同じようなものを感じるようになった。親近感とか、困っていたら放っておけないとか、そんなような気持ち。言葉にするのは難しいけれど、嫌って避けていた時とは違う感情を抱いていることは確かである。

どこかモノトーンに見える渋谷の街

これから大学の研究会のフィールドワーク調査のため、週に一度くらいのペースで渋谷に通うことになる。これをきっかけに、渋谷に対する自分の気持ちの変化にも目を向けていけたらと思う。渋谷と私の関係を見つめることを通して、私ならではの物事への見方がどんな風なのかということまで、もしかしたら気づくことができるかもしれない。そんなことを期待したりしなかったりするけれど、とりあえずはせっせと足を運ぶことから始めよう。

渋谷さん、これからどうぞよろしくお願いします。

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