瀟洒、それだけ?いいえ、猥雑も。

キムラマサヤ
exploring the power of place
5 min readNov 19, 2019

大学生活の傍らで、普段五反田で仕事をしているので、新宿から山手線に乗ると、必ず恵比寿を通る。恵比寿に着くと、かなりの人が降りるので、満員の車内にも余裕が生まれる。だからいつも「早く恵比寿に着かないかな」「恵比寿までは我慢しよう」と思っている。恵比寿について普段考えていることはその程度だ。

いつもは電車で通り過ごしてしまうが、恵比寿に行く用事もたまにはある。それは東京都写真美術館に行くことだ。写真好きな僕の中では恵比寿と東京都写真美術館が完全に強く結びついてしまっている。だからか、恵比寿に行くと写真に対しての気持ちも自然と感化される。
今回この文章を書くにあたって、恵比寿駅から半径500m以内の場所を歩くことにした。その時のことを書きたいが、どうしても写真について考えてしまう。そのことも含めて正直に書きたい。

僕の写真の感性はどうやら汚いところや雑多なところに向くらしい。これまでの経験でその向きがわかってきた。綺麗なものは大概誰もが見るし、誰が撮ったところで綺麗だ。すでに綺麗なものはどうにも転びようのない感じがするし、もうそれだけで十分な感じがする。一方で汚く雑多なものは、誰も見たがらない。それを撮影するというのは、それにスポットライトを当てている気がして面白い。うまく撮れれば迫力のある画や強烈なイメージを生み出すことができる。今回の挿入写真は全てあえて白黒にしている。色をなくし、そのもの自体の形や印象を強調できるからだ。ちなみに写真はいずれも恵比寿駅から半径500m以内の場所で撮影したものだ。

傍から見ると、ガーデンプレイスもあるからか一般に「恵比寿 = キレイ」だとか「恵比寿 = おしゃれ」だとかのイメージがあるように思うが、実際に歩いてみると雑多なところが多いことに気が付く。確かに駅前やメインストリートは整然としているが、人通りの少ない小道に一歩奥へ入ると、猥雑さが目に付く。

ちょうど1年前、僕は渋谷桜丘町を歩いていた。その時は村上春樹の『使いみちのない風景』を参考に、桜丘の風景について文章を書いた。
実際に渋谷と比べて歩いてみて思うのは、隣の渋谷は、駅前やメインストリートでも雑然としている。恵比寿はそうでもない。そしてもう一つ分かるのは、恵比寿は駅近くにも何かを祀っているものがあることだ。馬頭観世音、庚申橋供養碑、恵比寿神社などがそうだ。渋谷駅半径500mにそういったものがあるだろうか。僕はあまり感じたことはない。もちろん渋谷駅前はあまりにも発達し過ぎたということもあるだろう。それでも一駅でここまで変わるものかと思い知らされる。

撮影しながら散歩して僕は思ったのだけれど、恵比寿は僕にとって格好の写真対象なのだ。誤解を恐れずあえて言うならば欲情するのだ。
汚いだけのところなら他にもいくらでもある。恵比寿は変化にも種類にも富んでいるのだ。ガーデンプレイスのような場所がある一方で、何かを祀っているものがある。グラフィティがある。公園がある。歴史的な建造物がある。意味不明なものがある。ポイ捨てされたものがある。次から次へと舞い込んでくる。僕は目を離せない。シャッターを押す。そしてまたシャッターを押す…!

「一枚の写真に全てを込めよう」「一枚の写真で全てを語ろう」とするのは僕には無理だ。というかおこがましい。ただ、せめて、複数の多面的な写真でなら少しは何かわかるかもしれない。今回この文章を書くにあたり、あちこちを歩き回り、いっぱい「あ、これは」と思うものを見つけて写真を撮った。半径500mの限られた範囲の中に、これだけ雑多な世界を見たのだ。
恵比寿にもちょっと歩み寄れた気がする。ちょっとだけ、だけど。

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