無力だから

Michino Hirukawa
exploring the power of place
4 min readSep 17, 2019

私たちは、どこかへ運ばれる。日々の生活に、電車やバスといった公共の交通機関は欠かせない。スマートフォンでの乗り換えアプリや交通系ICカードがあれば、じぶんが望む場所へ容易く辿り着ける。さらに日本の電車は時間にも正確であることから、より移動の自由度は高まる。しかし朝の通学・通勤ラッシュ、夜の帰宅ラッシュに巻き込まれると、体力的にも精神的にも疲れ果ててしまう。見知らぬ人と至近距離で居続けるし、互いの衣服は密着している。そんな避けられない事実を受け入れ、じっと息を殺すしかない。

世間は夏休みになると、移動も増える。世にいう帰省の時期になると、公共の交通機関は人でごった返す。空いてる時間を考えたり、早めにチケットを確保したりと、神経質にならなければならない。私も帰省に飛行機を利用した。

飛行機では、すでに座席が決まっている。私はいつも決まって通路側の座席を選ぶ。何かあれば外に出られる、ちょっとした空間の安心感からだ。帰省のシーズンだから、ほぼ満席だった。スーツを着たサラリーマンもいれば、テーマパーク帰りのカップルもいて、それぞれが思い思いに飛行機へ乗り込む。搭乗も終わり、ひと通り落ち着くが、私の隣は空席だった。きっと誰も来ないと思ったとき、前方からキャビンアテンダントに案内されてこちらへ向かってくる客がいた。彼女は、小さな赤ん坊を抱いていた。

やはり私の隣に座るらしく、咄嗟に通路へ出た。しかしその女性は、赤ん坊を抱っこしていた紐を取り外したり、荷物を上に預けたりと、やや準備する必要があった。このときキャビンアテンダントが率先して彼女を手助けしていて、私は立っているだけだった。そして彼女は巧妙に片手で赤ん坊、反対にハンドバッグを抱え、「すみません」と私の前を通りながらゆっくりと座席についた。これで、彼女は両隣に挟まれる形になった。

飛行機が出発するまで、私は読書をしていたが、右を見ると赤ん坊と目が合った。なんとも可愛らしく、思わず笑みがこぼれる。飛行機もエンジンがかかり、母親は赤ん坊をあやし続ける。私は読書の手を止めて前を向くが、なぜかどうも隣が気になった。飛行機が上昇するとなれば、騒音と揺れできっと赤ん坊は怖がる。でも実際は、母親がじぶんの服のなかで赤ん坊を優しく抱き抱えて、一切の泣き声をあげることはなかった。

「こうやって、赤ん坊をあやすんだ」と、感心してしまった。

そのあとも、赤ん坊用のコップをじぶんのハンドバッグから母親は取り出そうとする。ハンドバッグは前の座席下にあるため、かがまなければならない。しかし、器用に膝の上に赤ん坊を乗せながら片手でそのコップを掴む。途中、キャビンアテンダントが飲み物のサービスで、彼女に水を手渡す。もちろん片手で飲み干すと、前の座席のポケットへゴミとなった紙コップを入れておきたいが、どうもうまくネットに引っ掛からない。だから私は、はじめて、じぶんの両手を差し出した。

「ありがとうございます」

飛行機が到着すると、上の荷物を取ろうと騒がしくなる。私はなるべく早く通路に出ると、「何かお手伝いしましょうか」と彼女に声をかけた。この言葉の途中くらいで、彼女はすでに荷物へと手を伸ばしていた。遅かった。そのあとも赤ん坊を抱きかかえながら、手早く荷物を収納していた。何かじぶんにできることがあるか、そんな風に見つめながら、この場を後にしてしまった。

飛行機や電車という公共の交通機関では、見知らぬ人と隣同士になる。満員となれば、じぶんの身体の自由さえも奪われてしまう。場合によれば、誰かにとってはとても不快な現場になってしまう。だからこそ、普通の電車のなかには「優先座席」という、空間的な余白が設けられている。あけてあるから、席を必要とする人に席が譲られる。けれども「優先座席」と明示的になれば、むしろ人は無関心になってしまう。空間の余白がない満員の飛行機では、じぶんに何ができるのかが試された。タイミングを推し量りつつ、手を差しのべようとするも、無力だった。それでも、想像力を働かし続ける。きっと、じぶん以外の人から学び、近づくための一歩になるからだ。

--

--