生活

Masaya Nakahara
exploring the power of place
4 min readJan 19, 2018

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重いスーツケースを転がして、一人暮らしの家から実家に戻っている。一階角部屋、7畳1K南向き。駅・コンビニ・バイト先は徒歩数分の距離。人気のラーメン屋に行きたけりゃ、どれくらい待ってるかなぁとベランダから覗いてから行ける。ただ、NHKの1chは映らない。上の階からは昼夜を問わず気になるくらいの音で、ドタバタと物音が聞こえる。いつも管理会社に相談しようと思うのだが忘れてしまうのは、それらを「仕方がない」って許せるくらいには落ち着ける空間だからか。去年の冬にいろんな不動産会社に通い詰めて、たまたま見つけた物件なだけに、愛着は強い。今年は本当にお世話になりました。来年もよろしく。

(2017/12/31 05:03始発の電車を待つホームにて)

朝から電車に乗っていた。三が日を終え、いつも通りの生活に戻り仕事に向かう通勤客と一緒に、満員電車に揺られながら、どんぶらどんぶら。

ふとなんでもない駅についた時、近くの席が空いた。家から目的地までは片道約一時間。「眠いし、ほぼ終点まで乗るから座らせてくれ。」なんて、ちょっとだけわがままになろうとしてみた。座ろうとすると、ほぼ同じタイミングで隣のサラリーマン風の男性が動き出した。こういう時、私は大抵譲ってしまう。性格のせいもあるが何より、一連のやり取りを長引かせたくない。まぁきっと、池袋あたりであくだろうともわかっていた。でも、もし一本早い電車に乗れていたら、こんなことなかったのかもな、なんて、ありもしないことを考える。私が譲らなかったら、座った男性は私のことをにらみつけただろうか。または、左脇にいた座りたそうな気配をビンビンに出していたおばさんが横取りしただろうか。朝だからか、仕方のないことをうだうだ考えているうちに池袋でどっと降りて、目的地まではぐっすり座って眠った。あの男性も気がつけばいなくなっていた。

(2018/01/03 08:30 電車の中にて)

駅へと向かう道を歩いていると、赤いミトンの手袋が落ちていることに気が付いた。この間、登校前に自転車用の手袋を無くしてあわてて百均に買いに走った。そのことを思い出して、こうして手袋はなくなっていくのかとしみじみ。これからいろんな人に踏みつぶされてしまうかもしれない手袋。なんだかいたたまれなくなり、しゃがんで手に取ってしまった。取ったはいいが、近くに交番もないし、私が持っていたところで意味もなく。仕方なく脇にあったガードレールの隙間に、ギュウっとはさんでおいた。持ち主が取りに来てくれたらいいけれど。

(2018/01/03 12: 28 帰り道)

小中高と、通っていた学校は実家の最寄り駅そばにあったから自転車で通っていた。帰り道よく友達らとたむろしたミスドとモスは、いつのまにかなくなっていた。後輩たちはどこで時間をつぶしているのだろう。ラジオ体操のために毎朝通ったゴルフ場は、高齢者のための大きな病院になっていた。商店街のあの並びにあった場所には何があったっけ。

生まれ育った場所の、記憶に残る場所がなくなってしまうことにはなぜだか寂しさを感じる。なんだか嫌だな、悲しいな、と思ったところでどうにかなるわけでもないし、我慢しなくちゃいけないのだけれど。あの場所を通る度、きっといろんなことを思い出すのだろう。

(2018/01/04 PM 16:30 親父と映画を見に行った帰り道にて)

アパートがあったはずの家の前。

振り返れば1月も半分以上すぎてしまったようだ。ついこのあいだ家族でおせちをつついたはずなのだが。あっという間に終わっていく日々を有意義に過ごす術は見つかっておらず。平成も今年で終わってしまうらしいが、世の中はいつも通りで。毎年ひとつずつ増える数字になじめないうちに、「良いお年を」と口にしている気がする。

スーパーの野菜が高いとか、一向に手荒れが治らないとか、嫌だなあと思うことはたくさんあって。なんだか昨日から喉も痛いし。でもそういえば、さっき作った目玉焼きは双子だったっけ。昨日のバイトも疲れたけれど、まかないはとびきり美味しかったなぁ。幸せのハードルは、軽くまたげるくらいがちょうどいい。毎日を送れるのはきっと、譲り譲られ、誰かのことを、何かのことを、理解しようと、納得させようとしているからなのか。そうだと嬉しい。

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