番組表

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新年になった。じつは、昨年はぼくにとって記念すべき年だった。というのも、いまの職場で本格的に仕事をはじめたのが2001年なので、ちょうど20年目を迎えていたのだった。何か特別なことを計画していたわけでもないが、とにかくCOVID-19のせいで、じぶんにとって「節目」の年であることをすっかり忘れていた。
だが、これまでにない状況で暮らすことがきっかけになって、日常生活のさまざまな場面をあらためてふり返る機会になった。とりわけ授業のすすめ方については、これまでの歳月のなかで少しずつかたどられてきた。もちろん、いろいろな工夫もある。じぶんの「スタイル」ともいうべきものを、あらためて見返す時間が増えた。

【番組表】左から:2011年5月30日(最初の番組表)|2020年4月7日(オンライン授業用)|2020年12月22日(ふたたび新聞ふうに)番組表をめぐる議論については、「番組表をつくる」に書いた。→ https://kangaeru.iincho.life/entry/2020/04/06

たとえば、ゼミのために毎週つくっている「番組表」について。ここでいう「番組表」は、180分というゼミの時間をテレビの「番組」に見立てて編成した、ただそれだけのものだ。当然のことながら、この「番組表」があれば、当日の流れを事前に知ることができる。いわゆる「議事次第」なので、それほど画期的なアイデアではない。
ぼくとしては、学生たちがプレゼンテーションに臨むさい、必要以上に義務感や課題としての意識を抱かないように、むしろじぶん自身が主体的に柔軟に使うことのできる時間(の割り当て)として理解できるようにという願いがあった。わずかな時間とはいえ、じぶんの「(番組)枠」だと考えれば、あたえられた時間をどのように組み立てるのかについて意欲的に考えるようになるはずだ。毎回のストーリー構成のみならず、数回にわたって展開してゆくコミュニケーションの連なりとしてとらえることにもつながるかもしれない。

このように、「番組表」づくりは、いろいろな想いを込めてはじめたことだ。つくるようになって、(一時期中断したものの)もう10年になる。気づけば、毎学期「番組表」をつくること、つくり続けることが「あたりまえ」になっている。しかしながら、最近はどうやら実態と合わなくなってきている。ここのところ、そう考えるようになった。
まず、たびたび説明は試みてきたつもりなのだが、「番組表」という形式は、もはや遠い昔のもので、学生たちにはあまり響かないようだ。学生たちに何かを伝えるための見立てとしては、不適切なのかもしれない。そのせいか、番組名も、毎回の内容を語ることばも、場当たり的な印象を受けることが少なくない。かぎられた文字数に見どころやメッセージを凝縮して、視聴者の注目を集める。それ自体もよいトレーニングになるはずだが、そもそも日常的には「番組表」の存在感は希薄だ。さらに本質的なこととして、ぼく自身が「番組表」をつくっておきながら、その本来の役目を損うことが多い。つい「時間枠」をこえてしゃべってしまうのだ。つまり、時間のマネジメントには役に立たなくなっている。「番組表」に込めた想いも、そして実用的な価値も、見直したほうがよいのだろう。

これまで「あたりまえ」だったはずのことが、思うようにできなくなった。想像していたよりも長い間、窮屈な毎日を過ごしているうちに、これまで「あたりまえ」だと思っていたことのほうが、じつは不自由だったのではないかと考えるようになった。いまこそ本質に立ち戻って、ゼミでのコミュニケーションに「時間枠」を設けること自体を問い直したほうがよいのだ。
その日の予定は、ある程度はわかっていたほうが安心だが、気乗りしているときはコミュニケーションを中断することは難しい。逆に、さほど盛り上がらなければ切り上げてしまったほうがいい。じぶん自身が善かれと思ってはじめたことは、なかなか手放しにくい。ささやかながらも10年間にわたって続けてきたのでなおさらのこと、記録としての価値があるなどと考えはじめる。だが、いまのじぶんと、あの頃のじぶんとの間には隔たりがある。その時間の流れをふまえて、仕組みそのものを変えてゆく自由を持ち合わせているのは、じつはぼく自身なのだ。年初に、すでに来学期のことをあれこれと考えている。

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Fumitoshi Kato
exploring the power of place

日々のこと、ちょっと考えさせられたことなど。軽すぎず重すぎず。「カレーキャラバン」は、ついに11年目に突入。 https://fklab.today/