白、そこにある可能性

キムラマサヤ
exploring the power of place
4 min readJul 18, 2019
何かのために「間」を空けて置いたら、それは「余白」になるのか。「余白」に大きさは問われないのか。たまたま余ったらどうなのか。これが僕の半期、「余白」について考えたいことである。

「余白」について研究会で話を聞いた時、初め思いついたのは、時間に応じてテナントを分けるご飯屋さんだった。ちょっと回りくどく、要を得ない説明だったかもしれない。つまりは、「テナントは同じだけども、10時から13時はA店でランチメニューを提供します。14時から17時はB店でカフェメニューを提供します」というような形態のことだ。例えばここ。のんべえ横丁のお店は昼間もちろん開かないし、お客さんも来ない。その時間を使って、ミルクティーを売る。昼間の渋谷にはミルクティーがピッタリだ。村上春樹だって似たようなことをしていた。昼間はジャズ喫茶を運営していたが、夜間はジャズバーに変えていた。

研究会内のあるグループ(がくあやか、しえり)は、アフォーダンスという観点から「余白」に取り組んでいた。彼らの考え、つまり別の使い方をできると僕らは「余白感」を得るという考えにはとても納得がいく。彼らのグループは自転車のカゴがゴミ箱になったり植木鉢になったりすることを動画で表現することで「余白」を鮮やかに示してくれた(近々、Webページにアップされるはず)。そして「空白」を埋めたいものだとしていた。

それを踏まえて上記の例を確認すると、昼から居酒屋やバーとして時間と場所を使うことももちろんできるが、使い方によっては上手い利用も可能だ。そしてできれば回っていない時間(=空白)を減らしたい。そこでプラスして考えたいのは、もしかしたら「もったいない」という認識が「余白」を考える上ではあってもいいのかもしれないということだ。

昼間に居酒屋を開いてもあまりお客さんは来ないのは自明だろう。反対に、夜にお茶やコーヒーだけを提供するカフェが少ないのも当然だろう。だから個人経営の喫茶店などは夜開けてないし、居酒屋も昼から開いているお店は少ない。だって、もったいない。費用対効果に見合っていない。でも、それがもったいない。場所も時間もあるのに(人はないことが多いだろう)、何もやっていないのだから。だからどうにかして上手い使い方はないかと考える。その時間と場所に別の利用可能性を感じる。単純に、あるものを見て、普段通り以外の使い方を思いつくこともある。さらに「もったいない」と感じる感性があればその発想力は増す。

身近にあった。

さて、ここで、前回「余白」について書いた文章を振り返りたい。心のゆとりは「余白」としていたが、これはバッファとしての「余白」である。これが別の利用可能性としての「余白」と通底するのは、「まだ何か入れることのできるスペース」だ。だからもしかしたら究極的には「余白」というのは「可能性」という言葉に尽きるのかもしれない。

原研哉の著書に『白』という本がある。その中で、“白”をemptinessと捉え、こう説明している。

何かを受け入れることで満たされる可能性を持つ

emptinessは単純に“無”ということではなく、何かが入る“予兆”や“可能性”としての意味で使われている。

つまり、「余白」というのは文字通り、可能性を残すこともしくは残されていることなのではないだろうか。そして「余白」を感じるというのは、我々が可能性に対する感性を持ち合わせているという証左なのではないだろうか。

引用
白. 原研哉. 中央公論新社. 2008

可能性としての余白。何に使おうかな。

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