目を見て話せること

Yudai Matsumuro
exploring the power of place
4 min readSep 19, 2018

If today were the last day of my life, would I want to do what I am about to do today?
あのアップルやピクサーでその名を広めたスティーブ・ジョブズの言葉である。仮定法を用いたこの文章は、『もし今日が人生最期の日だとしたら、私が今日やろうとしていることは本当にやりたいことだろうか。』という意味である。私はよくこの言葉を考えている。
もちろん、「今日自分が死ぬかもしれない」なんてないと多くの人は思っているだろうし、私自身も少し他人事として、少し距離をとって理解しているかもしれない。仮定の話だと取り合う気のない人がいてもおかしくない。
ただ、あまりあっては欲しくないが、事件や事故に巻き込まれたり、病気を患う可能性は等しくあると思うから、そう思って行動することで、より良い選択ができるような気がする。そうでなくても、自分の選択や決断をする上での助けにはなる。

納期の締め切りや宿題の提出が近づいているのに寝たり遊んでしまう。
目の前にしなければいけないことに気づいていながらも、手が回らない。

料理をしよう。洗濯物を回そう。ダイエットしよう。
身近な人に感謝の気持ちを伝えよう。
好きな人に告白しよう。
心のどこかでしたはずの決意は、忘れたまま放置されてしまうことも。程度の差こそあれ、誰しもが何かしら先延ばしにしていることがあると思う。将来の自分に期待を寄せて、今の自分は怠惰に過ごす。人間はめんどくさいのが嫌いな生き物なのだろう。楽な方に流れやすく、後へ後へと見送りがちだ。

私は一昨年最後の祖母を亡くした。90歳を超えた祖母は耳が遠く、ボケているわけではないが会話を成立させるのが難しかった。なかなか言葉が通じないので時には近くにあるティッシュの箱に受かった大学を書いて、報告をしてみたり、辛抱強く何度も簡単な言葉で繰り返した。
ピザがを食べるのが好きだったり、「あーツンツクツン」と言いながらジンジャーエールを飲む彼女にはどこか愛くるしさを感じていた。
裁縫が得意で、私が中学の時の文化祭の衣装を全部やってくれた。まだ祖母も耳が通じて私が幼稚園生だった頃、毎朝祖母と電話をしていた。一緒に住んでいたわけではないけれど、思い返せば思い出が多い。

そんな祖母の腰はどんどん丸くなり、痩せていった。デイサービスを始めた頃を最後に祖母とはそれきりだった。祖母の入院を聞いて、駆けつけた。たった数十分ほどの面会で、祖母はもう話せる状況ではなかったけれど、病院に行って本当によかったと思っている。祖母はその数日後に息を引き取った。忙しさに感けることなく、会いに行ったからこそ生前にしっかり今の自分を伝えれたと思う。

今度遊ぼう。今度飲もう。また連絡する。
久しぶりの連絡を取ったり、街で偶然再開した時によく使いがちな言葉だ。便利な言葉かもしれないが、その場しのぎになりがちである。

祖母との別れ以来、私は意識的に会いたい人と直接会って話すようにしている。コーヒー片手に立ち話でも、食事の席を設けて話し込んでも。その時々にあったスタイルで良い。久しぶりの連絡は気恥ずかしいし、相手は会いたいと思っていないかもしれない。それでも誘ってみることに意味があると思う。
現状を報告したり、悩みを相談したり、他愛もない話をしたり、それほど盛り上がらなかったり、なんでもいいのである。
『会う』というのは会っていないからこそ会いたいと思い、『会う』という行為ができるのだ。そこには直接会ったからこそ生まれた会話があるかもしれない。

私の場合、もし今日が人生最期の日だとしたら、会いたい人に直接会って話すだろう。これはこの先も変わらない。
怠惰な私だけど。

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