祖母とわたし

1999年:祖母にあやしてもらうわたし

両親が共働きである私は、幼い頃から「祖母っ子」だった。
保育園に通っていた頃の祖母の送り迎えは慣れたものだったし、5歳で引越しを経験した時には半年ほど祖母の家に住んだことがある。小学生になってからは、放課後クラブから帰宅して母親の帰りを待つ1時間半ほど、ほぼ毎日のように祖母に電話をかけていたほどだ。固定電話のコードをいじりながら、とにかくずっとおしゃべりしていた記憶がある。祖母は、続々と追加される私の友人の名前は覚えていないものの、「ま〜だ帰ってこないのかね〜。」と、母親の帰りを一緒に待ってくれた。夜のおばけが怖かったあの頃の1番の味方だったと思う。

小学校高学年になると、受験のために塾に通い出した。帰宅時間が遅くなり、祖母に電話をかける回数はぐっと減った。代わりに、私が1人で祖母の家まで電車に乗って行くようになった。お泊まりの時には、煮付けや酢の物などの好物からピシリと綺麗に整えられた布団まで、至れり尽くせりだった記憶がある。祖母は、本当に優しかった。

こんな孫への溺愛っぷりを、母親含めた姉妹(つまり祖母の娘たち)は、口を揃えて「人が変わったようだ」と言っていた。祖母は当時のスパルタ式の子育て本に影響され、食事中のマナーから生活態度まで厳しくしていたそうだ。食事中の姿勢が悪ければ鉄製の定規を背中側に入れて矯正し、食品添加物を口にしないように市販のお菓子を禁止していたという話を聞いたことがある。姉妹にとって、気が休まる場所はどちらかというと学校で、家では緊張しながら生活していたらしい。

時は経ち、今や社会人となった4姉妹がお正月に集まって昔話をしていた時、祖母が「厳しくしようしようと思ってたけど、今は、すまんと思っちょりますよ。」と一言言っていたことをよく覚えている。熊本弁を話す時の祖母は、いつもどこか素な感じがする。もしかすると、娘の子どもである私に優しくしてくれるのは、昔厳しくした分の反省も含んでいるのかもしれない。

そんな祖母が、最近また一段と丸くなった。丸くなった、と言う表現が正しいのかは分からない。認知症で私たちのことを忘れかけている、という方が正しい。会った時の第一声が「あら、どうも〜よくおいでくださいました。」と他人と会うような礼儀正しい反応なのだ。かと思えば、調子の良い日は「あら〜ようちゃん!久しぶり〜。」と祖母独特のハンドジェスチャーを付けて再会を喜んでくれる時もある。体調や気分には波があって、記憶の正確さにも波がある。

はじめは、祖母の記憶がなくなっていくことが、記憶から私が消えていくことが、怖いと思っていた。何より、祖母の口ぐせである「私はボケ・バァサンだから〜」と茶化すのを聞く度に、記憶が自分の意思に反してなくなっていく怖さと、家族に見捨てられるんじゃないかという怖さを、こうして茶化すことでごまかしているのが、寂しかった。側にいるよ、と伝えたくても、祖母から見た私は「他人」であるわけで、そんな祖母との距離をどう取るべきかが分からなかった。それは娘姉妹にとっても同じだったように思う。

ただ、時間が経つと、いつでも礼儀正しい姿はなんとも祖母らしいと思えてくる。徘徊する前に「子どもが待っているから家に帰らなきゃ」と言う時の責任感の強さは、子育ての頃の記憶からだろう。リクエストに合わせて一緒に近所を散歩し、家に送るふりをすると、小さな花に「あら、かわいいわね」と挨拶していた。そんな様子と、何度も繰り返す熊本にいた頃の昔話から、祖母の子ども時代を少し想像する。

祖母の記憶は、近いうちに「今」に近い方から徐々に薄れていくだろう。それに合わせて、私の中の祖母の記憶も新たに積み重なっていくわけだ。もちろん記憶が交錯したり混乱する現実はそう甘くないけれど、こうして変化していく祖母の姿も、また魅力的なのだ。コロナが落ち着いたら、また会いに行こうと思う。

2020年:洗顔後にわたしと話す祖母

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