移動距離という鏡

大学の授業の帰り道の電車内。外は真っ暗で、向かい側の窓にはガラガラの電車に揺られながら一人ぽつりと座っている自分が映る。ポケットからスマホを取り出し、情報とコンテンツの宝庫である複数のSNSアプリをはしごする。一通り見終わって、2週目に入るか読みかけていた本の続きを読むか迷った時にふと顔を上げ、自宅の最寄り駅まであと何駅かを確認した。始発駅から乗り、下車する終点駅までの中間地点にさえ、まだたどり着いていなかった。「帰り道が長い。」通い始めて3年目だが、「まだかな、まだかな」と車内の案内スクリーンを確認する回数はちっとも減らない。

今通っている大学から自宅までの距離は約30kmである。電車、バス、徒歩を合わせて、ドアツードアでかかる時間は2時間弱である。考えてみると、通学の道のりは大学生になるまでどこも30分〜40分で辿り着ける距離だった。小学生の頃は、1年生から6年生まで全員が決められた時間に登下校していたため、近所の同級生と毎日10人以上の集団で移動していた。その日の給食の話をすることもあれば、「グリコ」をしながら帰宅したり、時には少し迂回して神社にお参りしに行ったりしたこともある。固定された時間とメンバーの中で過ごしていたものの、電車ではなく徒歩であることによって得られる自由と楽しさを全身で享受していた。

中高生になると、電車で10分、徒歩で25分の計35分かけて通学していた。登下校を共にするのは同じ電車を利用する少人数のメンバーに一気に絞られた。その中でも同じ部活の同輩が2人いたため、よく3人で部活のことを真剣に話し合っていたことを昨日のことのように思い出せる。期末試験前や受験生になっても、電車の10分は勉強の時間、徒歩の25分はお互いクイズを出し合う、または息抜きのおしゃべりの時間となっていた。いずれにせよ、時間の経過を感じる余地もないほど、友人と濃密な時間を過ごしていた。

それに比べて、大学生になってからは、電車で誰かと話しながら帰ったことは1年で両手で数えられるぐらいの回数しか経験がなく、基本的には1人で長い2時間を過ごしている。サークルの連絡をひたすら回すこともあれば、自作の音楽プレイリストを聴きながらゆっくり本を読むこともあるし、目を瞑りながら深い考えごとをする時もある。その日の気分や状態によって自由に時間を構成できるが、基本的には横並びの座席やボックス席に1人で座って過ごすのには少し贅沢で、時には消化不良に感じられる時間である。

こうやってこれまでの移動中の自分の過ごし方を振り返ってみると、分かりやすくその頃の自分の状態を象徴していることに気づいた。小学生の時は自由奔放にクラスメイトと登下校を楽しくすることに全力だった。それぐらい「遊び」と「仲間との時間」に夢中だった。中高生の時は、部活や勉強と真剣に向き合っていたからこそ、ある種の義務感で登下校中での行動が自然と決まった。そして大学生の今は一人で埋めるのには広すぎる空間と長すぎる時間が与えられた中で、それなりにやりたいことを実現しながら、時には悩み、早く答え(終点)に辿り着かないかとそわそわしている。移動距離の時間の使い方をみるだけで、その時の自分の様子や置かれている状況が簡単に思い出される。

そのことに気づいて、途中から混み始めていた車内をふと見渡してみた。ネクタイがズレていることを気にせず疲れ切った様子のサラリーマン、隣同士ぎゅっとくっついて座る恋人たち、電子漫画に読み耽っていて降車駅を間違えてしまうおじさん。一つ一つの行動や様子が、色んな人の「今」を鏡のように映し出している。周りを観察しながら、そんなことを考えていたら、「まもなく終点」のアナウンスが車内に響き渡った。

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