線を引く日々

Masaya Nakahara
exploring the power of place
4 min readNov 19, 2017

夕暮れ、紅から黒に染まりゆく空を眺めると、着々と近づく年の瀬を感じ恨めしくおもってしまう。朝は布団から出られない。毎朝叩き起こしてくれた母親はいるわけもなく、ニャッキのように這いつくばって脱衣所へ。

忙しさもひと段落し、少しずつ普段の生活リズムを取り戻せつつあることに喜びを感じるも、ぽっかりと空いた穴はまだ埋まりそうもない。

2017年11月、十代でいられる期間も残りわずかだ。いつかこの時を振り返った時のために、近頃思うことを記しておこうと思う。

「大人になれよ」

最近、とある人から言われた言葉だ。「大人っぽいね」とか、「落ち着いているね」、とか、よくかけられてきた言葉はそういうものだった。自分自身でもそう努めているつもりではあったし、言われて悪い気はしていなかった。ただ、その言葉をかけられた日から、心の奥底に放り込んだものをひっくり返されたような気がしてならなくて、思い出せる限りの記憶をぐるぐる巡らせてしまうことが増えた。

中1の夏、父親の転勤に反発して姑息な嘘をついては通っていた水泳教室をさぼって街で遊ぶようになった。

中2の秋、不登校になった。簡単に言えばいじめにあった。学校に居場所がなくなった。周りが全員敵に見えた。インターナショナルスクールに転校することにした。

インターには多くの日本人がいた。日本語しかできない私は当然彼らと多くの時間を過ごした。英語は完璧に習得できずじまいだった。

高2の夏に帰国。高校生活を謳歌した。はじめての受験らしい受験も経験した。志望校には行けなかったが、大学には通わせてもらえている。

いろんなサークル活動、アルバイトも経験した。学園祭の実行委員では幹部として50人を超える局を束ねた。高校時代はやりもしなかったNPOや学生団体にも首を突っ込むようになった。展覧会に訪れて心惹かれたゼミにも入れてもらえた。アルバイトもぼちぼち順調だ。

来月私は二十歳を迎え、世間様からは「大人」として見られるようになる。そもそも「大人」ってなんだろう。苦いビールの味がわかること? 自分で稼いで自活すること?どちらもきっと当てはまる。ただ、私に「大人になれ」と言った人は、こう解釈していていた。

「大人になるってことは、『許す』こと。家族、仕事、自分、守らなければいけないことと、やらなければいけないこと、それらに挟まれる中でどうしても自分のものさしで測りきれないことが出てくるかもしれないけれど、それも全部許して飲み込めるのが大人。」

思えば、私は今まで好きなように生きてこられた。常に自分が最優先の、「子供のものさし」でしか物事を測ってこられなかった。

いつからか、常に直線しか引けず、直線しか測れなかったあの頃のものさしを、私は持たなくなったようだ。何か大きなきっかけがあったわけではない。ただ今では、他人のものさしを理解できるようになった。大人になるってことはきっと、いろんな形・長さのものさしを、自分のものとして受け入れていくことだと思う。今はまだ、それらを受け入れきれないし、うまくは使いこなせないけれど。それでもつらいときはつらいといえる、ぶれない芯は、自分のものさしは、常に持ち続けたい。

正直に言うと、「なんであの時ああなっちゃったのかな」、「こうしていたら今頃」、なんて後悔してしまうことはいまだにある。ただ、現状に大きな不満はない。「あの時失敗したけれど」、「悔しい思いがあったからこそ」、と十代を終える今、私はこうして振り返れた。

引いてきた線はまっすぐではないが、それがこれまでの私を私たらしめる。きっとそれでいい。残り何十年あるかわからない暇つぶしの日々を、線を引き続けて過ごす。いろんなみかたで、いろんなものさしで。

19歳の終わりに見た、忘れられないだろうある1日の空

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