縫い代とミシン目

初めての研究会を終えた僕は、ふわっとした安堵感と少しの不安を胸にバイト先のある藤沢駅に向かっていた。いつもの車両で、ほとんど開かない方の自動ドアにもたれ掛かりながらも、新しいモノ・コト・人で溢れる生活の始まりに少し、否かなり圧倒されていたのだった。そのままバイトの研修もあっという間に終わって、明日のことを考えながらそそくさと電車に乗り、いつもの所で弁当を買って帰宅した。駅からの帰り道は金木犀の匂いがしたり、爽やかな風が横切ったりと、季節の移ろいが身体で感じられた。

まだまだ夏休みタイムを引きずっていた僕は、程良い疲れを感じながらもなかなか寝付けなかったので、最近サボりっ放しだった靴磨きをすることにした。秋になって革靴を履く機会もこれから増えるだろうし、良いタイミングだった。何故か冷蔵庫の上にあった英字新聞を床に敷き、道具を準備した。普段履きで使っているWalk Overの短靴を下駄箱から取って来たら、まずはちゃんと汚れを落とし、いつも通りの手順で磨き始めた。革靴が好きな僕はこの作業が好きで、いつも夢中になる。そのまま没入して磨き続けていたら、仕上げの艶出し作業に取り掛かっていた。その時、ある「切り取り線」を見つけた。

それは革靴のステッチ、「ミシン目」だった。

「切り取り線のデザインって、このミシン目から来ているのかも。」そう思った僕は、「切り取り線」の存在が単に切り取るためだけにあるのではなく、複数の何かを繋ぎ合わせた跡としての「ミシン目」と考えられる事に気付いた。むしろ、これが本来の意味と捉える事は誤りではないだろう。

歴史的に人間は、モノ・コト・人、何でもまずは「分節する」という文化を築いて来た。しかしながら、現在はグローバリゼーションやデジタル経済の影響で、社会に多様性が複雑に入り乱れている状況にある。この様な混沌とした新しい環境での社会活動において、従来の分節文化を「先人がやって来たから」という安易な発想で無条件に継承して良いのだろうか?と疑問に思う。つまり、アクターの差異だけでグループを整理し、切り離すことを前提に「切り取り線」を設けるという行為が今の社会に不適切な可能性があるということである。異なる背景を持つ人と人とのコミュニケーションにおいて大切な事は、その差異を相互的に理解し、繋がる事を前提に「ミシン目」を設ける努力をすることではないだろうか。この視座の転換は社会に溢れるたくさんの繋がりに気付かせてくれる。1つの組織を構成する各主体はそれぞれ他と共有し合える要素を持っている。だからこそ、それらは繋がっていて、各主体と主体の境目には革靴の皮と皮を繋ぎ合わせるステッチの様に「ミシン目」が施されている。

昔、兵庫に住む祖母が僕に裁縫について話してくれた事があった。祖母は2つの生地を縫い合わせる時、少し余分な生地、つまり「縫い代」がないと直ぐにほつれたり、取れたり、更には後で直す事もできないと教えてくれた。この「縫い代」は、人間関係でいうところの共通点の様なもので、そこにステッチを施す事で繋がりができる。しかし、実際の人間関係はそれなりに難しい様に、その「ミシン目」も十分な「縫い代」がないと簡単に破れる「切り取り線」に早変わりしてしまう。今まで繋がっていたモノ同士でも、一度離れ離れになると、なかなか元通りにはならない。「縫い代」として共有し合う価値観や趣味嗜好、そして人生の体験などが多ければ多いほど、きっとその関係性には余裕が生まれる。そして、余裕のある関係性が水々しい繋がりを生み、信頼と安心感を織りなす。こうなればちょっとした行き違いがあっても、その十分な「縫い代」が、少しの歩み寄りでの修復を可能にするだろう。

僕は今、新しいコトを新しいモノで新しい人と取り組んでいる。だから、期待と共に少々の不安もある。しかし同時に、新鮮で水々しい関係性が築いていける事も楽しみに思っている。少しずつ「縫い代」を探しながら、また新たな「ミシン目」を紡ぐことができる様、自分磨きと靴磨きだけはサボらないようにしたい。