背中

🚧Got your back

Fumitoshi Kato
exploring the power of place
4 min readOct 9, 2018

--

渋谷に暮らすようになって、10年近くになる。「渋谷に住んでいる」と言うと、わかりづらい、人が多すぎるといった反応が少なくないが、学生の頃からよく足をはこんでいることもあって、その複雑さや猥雑さもふくめて親しみのあるまちだ。もちろん、学生の頃にくらべると、ずいぶん変わった。そしてここ数年は、東京オリンピックを目前に、かなりの急ピッチで、いたるところで工事がすすめられている。とりわけ渋谷駅の界隈は、文字どおり「見る見るうちに」変化している。
大がかりな工事は、たいてい深夜に行われる。ぼくたちが眠っているあいだに、工事がすすむ。多くの人びとの日常のリズムに干渉しないように、工事が計画されるからだ。現場に居合わせることはできないが、囲いが取れたり、通路が付けかえられたり、ひと晩でまちの風景が大きく変わる場面に出会う。

一か月ほど前、渋谷川沿いにあたらしくビルがオープンするというので、見物に出かけた。たまに通りがかる機会はあったものの、大がかりな工事は、着々とすすんでいたのだ。気づけば、渋谷川に沿って歩けるような道とともに、これまでにはなかった人の流れが生まれようとしていた。夕刻、界隈は多くの人で賑わっている。川の水はあまり綺麗には見えないし、臭いも少し気になる。とはいえ、川に沿って黄色い灯りが点って、なかなかいい雰囲気だった。あたらしいビルにはカフェやレストランが並び、川に向かって開かれている。
ようやく猛暑で苦しまずにすむ陽気になったので、外の席で食事をするのは、きっと気持ちがいいだろう。騒々しいイベントなどやめて、静かに語らえるようにしておくといい。「対岸」に目を移すと、室外機や換気口、非常階段が露わになっている。ピカピカのカフェの席から、少し汚れたビルの「裏」を眺める。もともと人目につかないように配置されていたはずのモノに、にわかに光が当たる。明治通りと渋谷川にはさまれたビルは、不意に背中を見られてしまうことになった。

October 8, 2018

まちは、「見る=見られる」という不断の関係によってつくられる。たとえばオープンカフェは、外の開放感はもちろんのこと、道行く人びとを眺めながら過ごすのが楽しい。腰をおろして、人びとのふるまいを観察する。そして、あれこれと(勝手に)寸評するのだ。じつは、まちを歩く人びとも、カフェのなかから視線を集めていることを(程度の差こそあれ)意識している。「見られる」ことに自覚的になると、まちを歩くじぶんの所作も変わってゆく。
そして、カフェから外を眺めているじぶんも、当然のことながら「見られる」存在である。ぼくたちは、いつも視線を交錯させながらまちを体験している。「見る=見られる」という関係を、ほどよい緊張とともに実感することができれば、それはお互いを見守ることにもつながるはずだ。ことばを交わさなくても、視線が多くを語る。

興味ぶかいのは、明治通り沿いのビル(多くは、それなりに年季の入った建物だ)にはいっさい手を加えていないという点だ。あたらしい視線が配置されたことによって、これまで「裏」にあったはずのモノが人目に触れるようになり、もはや「裏」とは呼べなくなった。まわりが変わることで、じぶんも変わる。建物と川とぼくたちとの関係が、組み替えられたのだ。いまは、やや唐突に露出したビルの背中がめずらしくて、写真に撮ったり話題にしたりする。だが、それはほどなく慣れ親しんだ風景に変わってゆくはずだ。
どこかの工事が終わるたびに、まちの見え方が変化する。まちは「完成」することなく、つねにどこかが変わり続けているのだろう。ここ数年は、とくに慌ただしい。その場面に立ち会って、そのつど「見る=見られる」という関係が更新されることに気づく。なんだか落ち着かないような気もするが、それが渋谷のまちの面白さなのかもしれない。🐸

--

--

Fumitoshi Kato
exploring the power of place

日々のこと、ちょっと考えさせられたことなど。軽すぎず重すぎず。「カレーキャラバン」は、ついに11年目に突入。 https://fklab.today/