脱ペットボトル

ere nakada
exploring the power of place
4 min readSep 19, 2020

今までは全くどうでもよかったことが、ふとした考えから、頭や、首や、胃や、腸に、どうしようもない気持ち悪さを与えることがある。

高校時代にGlobal Issueという世界で起こっている問題を扱う授業を選択していた。紛争や人種差別などの様々な課題が取り上げられるなかで、特に印象が残っているのがプラスチック問題である。それまでの私はとても都合の良い思考をしていて、生活しているだけでは害のある存在にはならないと思っていた。悪いことをしようと自ら行動しなければ、自分が悪になりえるはずがないと思っていた。しかしこの授業を受けて、受動的に生きているということがそもそも悪であることを知った。自分の手で生き物を殺すことと、自分が使ったかもしれないプラスチックに絡まって生き物を死なせることは、私にとっては詰まるところ同じなのである。

それからというもの、意識をしてマイボトルを持ち歩いたり、できる範囲でプラスチックを避けるように生活していた。しかし3月下旬から家に籠ることが増えて、家に日々のゴミ全てが集まるようになってから、プラスチックが予想以上に生活と一体化してしまっていることに気がついた。

当たり前になりすぎると、見えなくなってしまうから怖い。私が一番驚いたのは、あんなにも出先でペットボトルを買わないように気をつけていたにも関わらず、家では2リットルのペットボトルからお茶を飲んでいたことである。私の家では昔から、一度椅子に座ったらあまり立たなくていいように、醤油や七味などの調味料と大きいペットボトルのお茶がテーブルの上に置いてあった。そのことが当たり前になりすぎて、自分が使っている容器が何からできているかのを認識することさえできなくなっていた。しかし家族全員が家の中で過ごす時間が長くなるとその分お茶の消費量も増え、さらに自分がそのペットボトルを捨てる機会も増えた。そのため、自分たちが昔から消費してきたその大きいペットボトルに注目せざるを得ない状況となった。

もし存在の重さが地球に存在し続ける時間の長さにあるなら、私たち人間よりもプラスチックの存在の方が重いということになる。数時間や数日だけしか使わずに捨てたそのプラスチックは、ゴミ箱に入れた瞬間に消滅するわけではない。そのあと500年も生分解されずに、地球に残り続ける。それに比べたら、100年で綺麗さっぱり土へ還る人間はなんて軽いのだろう。私が死んで土に還ったあとも、私の安易な行動の残骸は地球に残り、悪影響を与え続ける。その考えが頭に浮かんだ途端、今までに使用した数え切れない2リットルペットボトルの、数百年分の存在の重みが身体にのしかかってきて、吐き気がした。

使い切りではないがこれもプラスチック。やはり生活に馴染みすぎている。

どうにかしてこの気持ち悪さから離れようと思い、私は洗って何度でも使える容器を購入した。ティーパックと水を入れて数時間待ち、使い終わったあとに容器を洗うだけで、あの苦しい考えから抜け出すことができた。一方私の家族からしたら、簡単に飲めてすぐに捨てられたペットボトルの方がよかったらしい。確かに使用するプラスチックの存在の重さが彼らを押し潰すこともないのだから、楽な選択を好むのも理解ができる。私が環境や生物を気にして手間をかけているのも、結局は私自身が苦しまないための自己中心さから来る行動だ。

自分本位から抜け出せないとするなら、行動の選択基準はどう決めたらよいだろうか。私は、できるだけ自分に満足できるような行動をしたいと思う。手軽さを基準に生活するより、他者を尊重する生活をする方が、私は私を好きになれる。吐き気が先に来た脱ペットボトルだったが、現在は、地球規模で行動できる自分に対してポジティブでいられることがモチベーションになっている。めんどくさいことも、好んで行う自分でありたい。この2020年に、私はそのように感じた。

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