行きたい場所

shinichiro kojima
exploring the power of place
4 min readJul 10, 2018

少年と少女がいる。少年が増える。少女が増える。そしてまた、少年が増える。そして、会話が生まれる。これって、普通のことなのだろうか。

私は一人でいることが多い。一人でいると誰かといる時より周りのことへ意識がいく。だから、日常に起こることが本当に日常なのか疑問になることがある。

私はある時ランニングをしていた。疲れたので、公園のベンチで休憩をとることにした。ここまでは特別なことではない。ベンチに座って一人で休憩していると、だんだんと公園が賑やかになる。時計を見ると時刻は二時。お昼ご飯を食べ終わった子供達が遊びにきたのだろう。私はベンチに寝っ転がり、ストレッチをする。右足を抱え込み、ハムストリングを伸ばす。ふと意識を目にやると、青い空が広がっている。とてもいい天気だ。疲れた私は、そのまま止まっていた。ここまでも特別なことではない。

意識は目から耳へと移っていった。元気な子供達が思いっきり遊んでいる。ある子は滑り台で遊び、ある子はブランコで遊んでいる。ある子は走り回っていて、ある子はある子と話している。そして、私はベンチで寝っ転がっている。ふと気付くと時刻は二時半。疲れている私とは対照に子供達はまだ楽しそうに遊んでいる。だが、二時ごろの時と何かが違う。色々なことをしていた子供達がだんだんとブランコの周りに集まってきた。そして、順番待ちをしている。ゆらゆらと揺れるブランコ。それを見た子たちが我先にとやってきたのだ。

私たちはブランコというと何が思い浮かぶだろう。何が思い浮かぶといっても、公園の遊具である以外なんでもない。だが、子供達は滑り台でもなくベンチでもなく、ゆらゆら動くブランコに集まってきたのだ。そして会話が生まれてた。

私たちは人間である以上、行きたい場所へ行く。例えば、休みの日には友人とご飯を食べにいったり、ショッピングをしたり、レジャー施設に行ったりなど。もちろん、行きたくなくても行かなくてはいけない場所も多くある。嫌いな授業や嫌いな人と行くご飯など。では、私たち人間が行きたい場所、つまりブランコに集まってくる子供達のように勝手に足を運んでしまう場所ってどんな所なのだろうか。その答えは、考える人によって変わってくるかもしれない。だが、私の答えは“ゆらゆらしている所”だ。“ゆらゆら”。この言葉の意味ってなんだろう。きっと多くの人は、ブランコみたいにものが揺れること、心が揺らぐこと、などが思い浮かぶと思う。私の考えも同じだ。では、“ゆらゆらしている所”とは何だろう。私は、心が揺らぐ場所という意味ではなく、ブランコみたいにものが揺れる場所だと考える。

赤ちゃんをあやしたり、小さい子のご機嫌を取ろうとする時、どのようなことをするだろうか。きっと、人形やおもちゃを顔も前で揺すったりすると思う。大人な私たちはそんなことされても、別になんとも思わない。だが、目の前で手品やダンスなどがやっていれば、きっと思わず見てしまう。

人は“ゆらゆらしている所”に思わず行ってしまうのかもしれない。友人と行くご飯、ショッピング、レジャー施設。きっと、心の揺れである。だが、心の揺れって実はブランコみたいなものの揺れと関係があるのではないだろうか。人は、大人に比べて子供は単純だ。だから、目の前でゆらゆらしているブランコに集まる。大人は単純ではない。だから、行きたい場所は必ずしもゆらゆらしていない。

私たち大人が行きたい場所、それは音の波や心臓の鼓動、きっと何かが揺れている場所だ。

こんなことを考えながらふと意識を目にやると、少し青い空がくすんでいた。時刻は三時過ぎ。一時間も寝転びながら、こんなことを考えていた。元気に遊んでいた子供達も一人また一人と減っていく。私は体を起こし、またランニングを始めた。

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