「見えない」

黒い背景に名前だけ表示されたパソコンの画面を見つめながら、音声ミュートを外す。部屋には私の声しか響かないものの、耳元のイヤホンからは会ったことも見たこともない人の声が届く。

新型コロナウイルスが日本で拡大し始めてから1年が経とうとしている。私が通う慶應義塾大学の湘南藤沢キャンパス(通称、SFC)でも、ほとんどの授業がオンライン化され、家でパソコンと向き合う日々が続いている。授業はweb会議サービスを使用して行われており、最近はzoomが主流になってきている。ほとんどの授業では、カメラオンにして自分の映像を出す学生はほとんどおらず、唯一カメラオンの先生が講義を進めている。

上述した授業の様子の一例。zoomに参加すると、自分の映像は画面左上に表示され、他の参加者の映像は格子状に並ぶ。カメラオフにすると黒い背景に名前が表示され、カメラオンの人は基本的に上の方に表示される。

今学期、私は異文化交流に関する授業を履修していた。授業は講義とグルワが半分ずつの割合で構成され、学期末にはその成果発表も控えていた(他大学でどう呼んでいるのかは知らないが、SFCではグループワークのことを「グルワ」と呼ぶ)。

初回授業にてグルワの時間になると、zoomのブレイクアウトルームという機能でグループごとに分けられた。ここ最近の私の経験上、1学期かけて取り組むグルワの場合、ブレイクアウトルームに移動したらカメラオンにして互いの顔を見ながら話す。表情や仕草からも相手を想像できるし、距離も縮まるからだ。ただ、最初にカメラオンにするのは、誰も後に続いてくれない可能性もあるし、そうなったときにまたカメラオフにするのも気まずいから、気が引けてしまう。私以外の3人も同じ考えだったのか、初回のグルワは全員がカメラオフのまま終えてしまった。その後メールとLINEでやりとりをし、授業だけでは時間が足りないため、毎週木曜日の22時半から1時間、授業外で集まる日を設けた。

2回目のグルワとなる木曜日。次こそはカメラオンで話し合おうと意気込んでいた私は、30分前には部屋着から外着へと着替え、髪の毛を整えスタンバイしていた。22時半になり話し合いが始まったが、私を含め誰も姿を見せないまま終わってしまった。映像がないからかあまり意見は出ず、まともな議論ができなかった。その後のグルワもカメラオフのまま続き、私はどうしようか悩み始めた。互いに顔を見ながら話し合わないと、成果もでないし発表もできないと焦っていた。毎回のように私から映像を出そうと意気込むのだが、率先して自分の姿を晒すことに抵抗があり、なかなかできずにいた。だんだんと、部屋着のままで髪の毛も整えずに参加するようになった。

しかし、何度も声だけのグルワを重ねていくうちに、私たちはだんだんと打ち解けていった。意見を出し合うだけでなく、雑談やちょっとした冗談で笑うようにもなったのだ。互いに名前を呼ぶようにもなり、気のせいかもしれないが、初回よりもみんなの声のトーンがあがったようだった。毎週木曜日の夜に黒い画面に向かって話すのも、耳にだけ届く相手のふるまいから想像を膨らませるのも、打ち解けている実感を得てからは悪いものではなかった。声だけのやりとりでありながら、確実に私たちの距離は縮まっていたのだ。

結局、一度もメンバーの姿を見ることなくグルワが終わった。学期末の成果発表ですら、誰もカメラオンにしなかった。それでも私たちは、発表後にLINEで互いを労い、達成感を得ていた。「なんとか終わってよかったです」というメッセージを読んで、無事に発表を終えたことよりも、姿が見えないままグルワを終えたことへの労いや達成感なのかもしれないと思った。

コミュニケーションにおける視覚情報の影響は大きいとされている。しかし今回、私は視覚情報が一切ない状態で1学期間のグルワを終えた。もしかすると、視覚情報は必須ではないのかもしれない。たとえカメラオンにしていても、別の画面を見ているかもしれないし、映らないところでゲームをしているかもしれない。見えていてもわからないのなら、いっそのことカメラオフのままで、想像にゆだねてみるのはどうだろうか。「見えない」という情報は、きっと私たちの距離を縮めてくれるはずだ。

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