触れない手助け

JR大阪駅のホームで、友人と京都行きの快速電車が来るのを待っていた。私たちの列の前には、5歳くらいの男の子がお母さんに手を引かれて並んでいた。少し離れていたので何を話しているのかはわからなかったが、久しぶりの外出だったのか、男の子は落ち着かない様子でお母さんの腕を引っ張ったり、線路を覗きに行ったりと電車が来るのを心待ちにしているようだった。私たちも、水を買ったり他愛もない話をして、電車が来るのを待つ。今では「ソーシャルディスタンス」と称して、プラットホームにも1メートルほどの間隔で、人が並ぶ位置にきちんと線が引かれている。つい最近まで、身動きできないほどの行列や、人が無遠慮にぶつかり合う乗降口という光景が当たり前だった場所にも、ゆとりができてなんだか贅沢な気分にすらなる。

JR大阪駅京都線のホーム。休日ということもあってなんだか穏やかだった。

電車がもうすぐ来る、というときに不意に目の前にいた男の子が駄々をこね始めた。危ないから、とお母さんがなだめている。突然腕を強く男の子に引っ張られ、何かがカランコロンと音を立ててホームの床に落ちた。消毒液のスプレーと蓋だった。そのままそれらは転がって、ちょうど私たちの足先で止まった。反射的に拾い上げなければと蓋に触れようとした瞬間に、横にいた友達に「待って!」と私の腕を掴んでそれを阻まれた。びっくりして動きを止めたと同時に、瞬時に「あ、ダメなんや」と私は拾おうとしていた手を引っ込めた。その一連の動作を停止させた友人に、ウイルス感染に敏感なこのご時世で他人の物に触れるなんてご法度、といった意図があったことをその気迫から感じ取った。しかし、依然として男の子はずっと駄々をこねていて、お母さんは手を離せないでいた。拾って持って行くべきなのか、それとも手を触れずにそのままにしておくべきなのか。私たちも、目と鼻の先に転がって来た彼らの消毒液があるのにも関わらず、どうすることもできずに、ただうろたえる他なかった。

暫くして男の子が落ち着き、お母さんが「あーすいません、ありがとうございます」とお辞儀をしながらこちらへ向かって来た。こちらも条件反射のように「あーいえいえ」と言いながらペコペコとお辞儀をした。それから、彼女が私たちの前に来て、消毒液を拾い、また1メートル先へ戻って行くところまでを黙って見届けた。

あの時の『ありがとう』はなんだったのか。拾おうとしてくれて『ありがとう』?拾わずにいてくれて『ありがとう』?となると、こちらもなんの『いえいえ』だったのだろうか。

当たり前だがその意味を特に問うことはなく、私たちは彼らと別の電車に乗り込んだ。しかし同時に、その意味があったにしろ無かったにしろ、あやふやなまま、その場を終える心地よさを感じている自分がいた。思えば、春から大学の授業や飲み会までオンラインで行われていたこともあって、文章や画面越しで、メッセージを明確に伝えなければいけない状況が自然に増えていた。その反面、相手の些細な行動から、気持ちや思いを汲み取ることも減ったような気もする。その日私たちは、転がって来た消毒液を前に戸惑いや葛藤を一連の動作で示し、それに対して『ありがとう』という言葉だけで、何らかの理解と応答をもらえたような気がした。心の距離を縮めるのに物理的な距離は関係ない、なんて今年はよく聞いたものだが、確かにある程度の距離があっても、確実にメッセージを発さずに気持ちを伝えることができるのかもしれないと、ふと考える。あるいは少しの距離があるからこそ、今回のように思いやりの気持ちを伝えられることもあるのだろう。あの日、1メートルの距離のなかで、語らず触れずに果たせた最大限の手助けを思い出していた。

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