誰もいない場所には帰れない

Gaku Makino
exploring the power of place
4 min readFeb 19, 2020

「もしかしたら、もう恵比寿に来ることはないかもなぁ」

恵比寿をテーマにした展示が終わった後、無意識にこう呟いていた。

僕は文化人類学や社会学のゼミに入っている。テーマと場所を決めて、半年間にわたってフィールドワークをするという課題を2年間やってきた。昨年は渋谷がフィールドで、今年は恵比寿がフィールドに選ばれた。だからこの半年間は、ひたすら恵比寿を歩いてきた。そのおかげで、どこに何があるか、今自分がどこにいるか、地理感覚がはっきりするほど恵比寿に詳しくなった。普段、池尻でインターンとして働いているのだが、池尻から恵比寿までの道順も覚え、どこを通れば坂がキツくないか、どうすれば車通りが少ない場所を通れるか、どこにシェアサイクルのポートがあるかも覚えてしまった。こんなに恵比寿のことに詳しくなったのにと言うべきか、来すぎてしまったからと言うべきかわからないが、不覚にも僕はもう恵比寿に来ることはないと思ってしまった。

恵比寿のどこかで

これは昨年と違う感覚だった。昨年のフィールドが渋谷だったと先に述べたが、渋谷のフィールドワークが終わった時、渋谷に二度と来ないだろうとは思わなかった。これは、単純に渋谷は交通の便が良いから、来たい来たくないにかかわらず、移動する際のハブとして使ってしまうとか、そんな屁理屈のような意味ではない。ただそう感じたのだ。渋谷といっても、東急の再開発中である桜丘が研究の舞台だった。過渡期というか、ある種の終わりを迎えようとしている場所という儚いストーリーのせいか、あるいは、野球評論家がベストナインに往年のスター選手ばかりを選ぶかのように、僕は過去の渋谷というフィールドでの経験を美化してしまっているのかもしれない。

けれども、もっと決定的なポイントに気づいた。それは、僕がフィールドで出会った人の数だ。恵比寿では、現地の人と話す機会はなかった。それに対して桜丘では、フィールドワークを通して仲良くなった現地の人が五人以上はいた。足繁く同じ場所に通い続け、いきなり現れた大学生として怪しまれることがあっても、それでも通い続けた。振り返れば、そんな勇気が自分のどこにあったのかと感心してしまうが、それほど人と仲良くなるのは大変なことだった。ましてや、大学生の友達とは異なり、立場も年齢もバックグラウンドも何もかもが自分とは違い、共通点がわからない状況で、仲良くなろうと手探りで話題をひねくり出し、そこに自分が存在する理由を作り出そうともがいた。努力と試行錯誤を重ねる分、ある程度、仲が深まったときの達成感は格別だ。そこに費やした努力の分、簡単にその関係性を手放してしまうことが惜しくなる。だから、再び戻る必要を感じるのかもしれない。

話しかける勇気のなかった人々

そもそも、僕たちは誰もいない場所に戻ろうとするだろうか。家族のいない家。友達のいない地元。誰の存在も感じない場所に、僕は「帰り」たくはない。そこに見知った誰かがいて初めて、僕たちは「戻る」や「帰る」という言葉を使うのかもしれないと思った。もちろん、場所に対する記憶から再訪時に懐かしさを感じることはあるだろう。ただ、恵比寿に再び来ても懐かしさを感じるだけで、僕は「帰ってきた」感を覚えないだろう。

キッチンにはハイライトとウイスキーグラス
どこにでもあるような 家族の風景

これはハナレグミ ”家族の風景“の歌詞の一節だ。この歌には「帰る」感をよく感じる。うちの家族はハイライトを吸わないし、ウイスキーも飲まない。けれども、これを聞くと誰かの存在を強く感じて、気づいた時には家に帰りたくなる。誰かがいるから、戻ろう、帰ろうと思える。渋谷には誰かがいて、恵比寿には誰もいない。

誰もいない場所には帰れない、のだ。

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