贈ること

この時期の恵比寿ガーデンプレイスに心がときめく。大きなクリスマスツリーに続く1本1本が丁寧にライトアップされている並木道、そして最後にガラス張りのオブジェに囲まれて飾られている繊細ながら輝かしいシャンデリア。見ているだけで外の寒さも忘れ、温かい気持ちでいっぱいになる。恵比寿はクリスマスの煌めきをぎゅっと凝縮したような街に変身する。

小さい頃からクリスマスが1年の中で一番好きな時期だ。耳に入るBGMで同じクリスマスソングを何度聴いても飽きないし、お店に並ぶ季節限定の商品もずっと眺めてしまう。幼少期をアメリカで過ごしたからこそ、クリスマスが持つ光に包まれたような、幻想的な世界観にかなり魅了される。そしてそれを体現した、恵比寿のような街に自然と出かけたくなる。そんな時に私は必ずクリスマスを通して得た”贈ること”へのこだわりを思い出す。

私は父、母、兄の4人と暮らしている。クリスマスは毎年家族4人で過ごすことが恒例である。私の家族は毎年クリスマスイブの夜にプレゼント交換会をしている。今年はついに15年目の開催であり、年々プレゼント交換会のクオリティが上がっている。交換会のルールはいたってシンプルで

・1人につき1つ以上のプレゼントを用意する

・相手に何を贈るかはクリスマスイブ当日まで本人に言ってはいけない

の2つだけである。

小さい頃の私はお小遣いなどの収入もなく、自分で買い物に行く足もなかった。そのため、すでに家にあるものを使って何かを1から作ったり、2つのものを組み合わせて新しいものを作ったりしていた。iPod Nanoを欲しがっていた兄には段ボールと折り紙でできたその模型、肩こりに悩んでいた父には肩たたき券を含んだマッサージクーポン、マイケルジャクソンに夢中だった母にはマイケルと母を合成した写真集を手作りしてプレゼントした。家族は私なりの最大限の贈り物を喜んで受け取ってくれた。この時は少ない資源で何を作れるかというプロセスを純粋に楽しんでいた。

しかし、3年目ぐらいになると、家族にプレゼントを用意することがいかに低予算で楽に済ませられるかという考えに変わってしまった。兄にはマックのハッピーセットに付いてきたおもちゃ、母には昼食代としてもらったお金のお釣りで買った文房具、父にはネットで見つけた好きなゴルフ選手のサインを印刷してプレゼントした。その時の家族の引きつった表情を今でも忘れられない。そこには明らかに喜びはなかった。

その次の年、私はアメリカの現地校で”The season of giving”という言葉を学んだ。この言葉には様々な意味が込められているが、その一つにクリスマスとはプレゼントをもらうだけの行事ではなく、家族や友人と愛を分かち合うことが一番大事であるという意味が含まれている。もらうことばかりに注力していた私は、ちっとも正しく分け与えることができていなかった。確かに私はあるものを“give”していた。しかし、その根底にあるべき、自分の愛や想いを誰かの幸せのために”give”することは全くできていなかった。今となってはそんな当たり前のことが、小学生の私は分かっていなかったのである。

誰かと幸せや喜びを共有するには合理性や論理性ではなく、果てしない想像力が最も大事である。その人が贈り物を受け取った時の表情や感情をできるだけリアルにイメージしながら、何をしたら嬉しがってくれるか、どういう感情を一緒に共有したいかを考えながら贈り物を選ぶ。

この気付きがあってからはクリスマスだけでなく、普段生活している中で誰かに何かを“贈る”時に強いこだわりを持つようになった。相手が何を欲しいと思うのか、何だったら喜ぶのか、その想像の過程でその人をより知ることを楽しんでいる。クリスマスという行事は私の”贈ること”に対する考え方を大きく変えたきっかけなのである。

だからこそ、恵比寿や街中を包むクリスマスの空気に心が温まる。今年も誰かが誰かのために色々な想像を膨らませながら、大切な贈り物を用意していると思うと、それだけで幸せな気持ちになる。

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