距離と心地よさ

Nagisa
exploring the power of place
Dec 19, 2020

横浜市民の私は、鎌倉とみなとみらいエリアを頻繁に訪れる。食べ歩きや観覧車を楽しむために遊びに行くというよりは、鎌倉であれば海岸まで歩き、みなとみらいなら横浜駅から港まで誰かと話しながらふらっと歩く。どちらも観光地として休日は賑わう場所だけど、木曜の夜なんかに行けば、すれ違う人は数えるほど。このお散歩コースたちは、全ての距離がちょうどいい。

まずは歩く上での物理的な距離。どちらも片道20分くらいで、たどり着いた先には何度行っても見飽きない景色が待っている。この季節のみなとみらいはちょっと煌びやか過ぎるから、土手の芝生で寝転がって遠目に見つめるくらいがちょうどいい。鎌倉なら、冬の海岸での月光浴のほか、ない。空が澄んでいる日なら、星空に包まれる。毎日の通学路だったらちょっと遠いと感じるかもしれないけど、たまのお散歩コースには絶妙。

誰と何をするか、だってその相手との距離を表す。例えばキャッチーな映画なら初対面の人とでも観に行けるけど、相手と2人きりのドライブはキツイ、とかそういった具合に。特に何もせずただ一緒に歩くことは自由度がかなり高いけど、その分歩いているときの方が気分や思考の流れが穏やかになる。自室でポツンと座っていると考えは煮詰まるし、運動をしている時は一旦心と頭を解放させることはできるけどあくまでも一時的なもの。冷静に戻った時に思考の波に襲われる。誰かとするお散歩はこの2つのちょうど中間で、無意識的に流れるように考えを巡らせることができると感じる。気づきや疑問があればすぐ発散できるし、意見だってもらえる。無言で考え込みすぎていれば「何考えてる?」が横からすぐに飛んできて、ハッとさせてもらえる。一緒に何もしない、は至高。

隣にいるという位置関係によって、心地よさはさらに増す。正面にいるときは視線が気になるから、とかそういったネガティブな理由ではない。隣にいる存在感や温かさを肌で感じながらたまにぶつかって「あ、ごめん」というやりとりもしつつ、同じ場所に向かう。ちゃんと話を聞くために目を合わせたい時は、合わせられる。でもずっと顔を向け合っているわけではないから、話している時の反応は想像して過ごしている時間も多い。互いに解釈にずれが生じない自信と信頼があって、いい意味での慣れが表れているように思える。正面にいる時はテーブルとか食べ物などの2人を隔てる物があるけれど、隣を歩けば何もなくて、むしろ視線の交じり方の純度が高い。隣にいるときが一番近い。

そして最も肝心なのは、一緒に歩いている人との心理的距離。これまで上げてきた全ての条件がそろっても、何かが合わない人とだったら気まずさや緊張が漂って仕方ないと思う。これらの距離が心地よく感じるのは、その人との心理的距離と合っているからこそのこと。結局、物理的距離は相手との関係性を表す。必ず比例している、とかそんな単純な仕組みではないけれど、2つは強く関わり合っている。

どちらのお散歩コースも私の好きな場所。すきな人としか行かないし、どちらも共有できる人なんてめったにいないけど、いる。

この1年を通して「距離」について考えたとき、楽しいことはひとつも浮かばなかった。距離が有ることは苦しくて絶望的。一度は近かった人でさえも地球半周を隔ててしまえば、この先再び日常が重なる可能性は無いに等しい。私には地球は広過ぎて耐えられない。それでも少しづつ、ポジティブな距離が見つけられるようになってきた。でもその距離をはかるためには少なくとも2点が存在しないといけない。つまり、私の対になるもう1人が必ず必要。だからこそ人とは現実に会う必要がある。距離が実在するからこそ半歩近づいたり、反対に遠ざかっていくという調整が互いにできる。私には画面の中に、電波の上だけで存在するというのは、無理だ。

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