途中駅

Michino Hirukawa
exploring the power of place
4 min readNov 19, 2019

未だに不思議な気持ちになる。上京組として恥ずかしながら、約1時間ほどでかつて憧れていた東京へ行けるからだ。湘南新宿ラインで「次は、〇〇駅」と何度も車内アナウンスを聞くたび、私はたしかに東京へ向かっていると実感する。電車のスピードに身を委ねて、ぼーっと立っていることもあれば、運がよければ座れる。今日はずっと、窓のほうへ視線を向けていた。流れる景色を見ながら、私はさまざまな空想をめぐり、めぐらせていた。

まず、横浜に着くまでは我慢。ちょっとお洒落なレストランで時間を過ごしたいときも、何軒か飲み歩きをしたいときも、横浜は候補先のひとつになる。洋服を買いたければ、地下街を歩いていると何かしらの店が目に留まる。この駅では、何とでもなる。ただ、乗り換えだけは要注意。今は降りないが、下手すればとんでもない距離を歩くことになる。いつの頃からか、人混みを避けて歩くのは容易くなった。

次は、ああ、新川崎か。川崎へは何度か訪れたことがある。主に映画を観るために、半年に1回ほど立ち寄るペースだ。しかし、この駅は、川崎に「新」がついて新川崎。川崎と何かしらの関係があるのかもしれない。路線上でも横浜と大崎の間であるから、神奈川と東京の間に位置している駅だとは予測できるけど。

ひとつ川を越えると、高層タワーマンションがどっと立ち並んでいる光景が目に飛び込んできた。でも、私は知っている。多くの人が、このまちに憧れることを。ここまでたどり着くと、都心へ近づいていくモードへ自然と切り替えている。今日も、乗り換えで待ちぼうけを食らった。黒スーツを着た多くのビジネスマンが、どっと電車から降りてくる様子は日常だ。

西大井をほとんど意識することができない。不思議なことに、横須賀線に乗るときは、品川の手前として理解している。きっとおそらく、私は生活範囲に品川を起点として移動することが多いからだ。同じ駅にも関わらず、利用する路線によって駅に関する記憶が違う。

たまに、りんかい線でお台場方面へ行くときは大崎を使う。私にとって、お台場はエンターテイメントのまちだ。科学ミュージアムやテレビ局、多数の展示場や公園があるため、まち全体がテーマパークのようだ。ドキドキ感にちかい、子供のような気持ちを抱いてしまう。

目的地まで、あと少し。その直前にあるのが恵比寿だ。神奈川からはるばる都心へやって来たわけだが、もうひと踏ん張り。恵比寿のホームは、なぜか天井が高く見えてしまう。入口と出口や路線が看板に提示され、きれいに道順が整理されている印象がある。恵比寿に近づく車内アナウンスとともに、「ああ、恵比寿かあ」と、私は心のなかでつぶやいている。

ようやく着いた。電車から降りると、ツンとしたものが匂う。混沌とした音も遠くのほうから聞こえる。私の集中度は、一気に高まる。緊張感もある。そんな気持ちよりも、まずは「おつかれさまでした」とほっとしたいところだが、ここからが勝負だ。足を進めなければならないと思うと、落ち着いてられる暇はない。私は未だ渋谷に圧倒されてしまう。いっそのこと、どうにでもなれといった気持ちで周りの人たちのなかに紛れながら消えていく。

ひとつの駅へ近づくたび、何となく私はイメージを浮かべていた。もしかしたら、確実に目的地へ向かっていると、自分の中でいちいち確認していたのかもしれない。だから途中駅は、着実に目的地へ向かっている「手がかり」でもある。

あと何年くらい、湘南新宿ラインを利用する生活を送るのだろうか。いくつかの駅には、降りるチャンスがあるのかもわからない。けれども途中駅としての断片的なイメージを重ねておけば、それでいいのかもしれない。なぜなら、めぐり、めぐるイメージは、未来からの参照となっていくからだ。今ではなくいずれ、私はある一定の期間このエリアで生活していたと思い出せたり、懐かしめたりする、「手がかり」となる日がくるまで。

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