陽の当たるところ

大学1年の終わりごろ、大学へ向かう電車に、40代くらいの男性が自転車のようなしっかりとした作りのキックボードを肩がけしていた。私はすぐに子供の頃、JD Razorという鉄パイプでできた子供向けのキックボードによく乗って遊んでいたことを思い出した。その頃は米国に住んでいたため、自宅の周りでしか乗ることが許されていなかった。私自身、それでどこか遠くへ行きたいと思うこともなく、ただただ遊具として、乗って遊ぶことが好きだった。しかし、この男性を見たときに、キックボードは遊具のみでなく、自転車の乗りやすさとスケートボードの手軽さを兼ね揃えた、移動手段になり得ることに気付いた。自動車運転免許すら持っていない私は、その新しい「足」としての可能性を見つけたことにワクワクした。

帰宅してすぐさま、親にその気持ちを熱弁すると、「また子供のおもちゃを…」「家の周りは坂道だらけなんだから使えない」「そんなものに乗っている大人なんていない、絶対にやめた方がいい」と強く批判された。さらに、調べてみると、「大人用キックボード」は少し高級だった。少なくとも、思いつきで買えるような値段ではなかった。それから2年間、誕生日やクリスマスが近づくたびに「欲しい…」と呟いてみたものの、実際に手に入れるまでに至らなかった。

2021年の1月、コロナによる外出自粛令と外の寒さで家に籠る日々が続き、私は1日中本を読む生活を送るようになった。ただでさえ外の世界と断絶されていたのに、傷を抉るように現代社会の暗い部分を切り取ったような本を数冊読んでしまったからか、いつもより心が疲弊していた。そんな中、1冊のエッセイストの『(前略)でもやっぱり会いに行ってください。と、私は言いたい。(中略)だっていつもは、いつまでもじゃないんだから。』という言葉が、引っかかった。この文だけで、ものすごく外へ飛び出し、「どこか」へ行きたくなったが、私の足は動く気になれなかった。徒歩で行ける距離にある場所はこの1年かけて、行き尽くした。今外に出たところで、物理的に行けるところは限られている上に、これまでと同じような道を辿って、同じような景色が見えるだけな気がしていた。

こんな時にキックボードがあれば、いつものパン屋、スーパー、公園よりも、ちょっと先まで行ける。そしたらそこに何か、新しい世界が広がっているかもしれない。そう思い始めたら、止まらなくなり、ついにネットで念願のキックボードをポチッと購入した。その瞬間から私は小学生が遠足の前日の夜に感じるような期待と待ち遠しい気持ちでいっぱいだった。行動範囲が広がったことで、普段なら足を伸ばさない場所へ行ける特別切符を手に入れた気分だった。

キックボードに乗るたびに、現在地から目的地までの距離が遠く感じなくなり、世界が広くなったような気分になる。しかし、よく考えたら、その見えるようになった世界はずっと前からそこに広がっていた。ただ私は自分の周りに境界線を引き、その範囲内にしか目を向けず、そこの中でのみ生きていた。実際にキックボードで出かけて行ったことで、やっとそのことを感じた。そして、そのためには、キックボードのような道具自体が必要なのではなく、無意識に引いた境界線の外にも世界があることに気づくことが大事なのである。

これは私が幼い頃、夜空に浮かぶ三日月は見えるままの形で存在しているものだと思っていたことと似ている。地球から見る月の形は本当はいつだって丸いのに、光が当たっている面積だけがその全てだと思い込んでしまう。ただ、月の満ち欠けは自分で調整できないのに対して、世界の見方は自分次第で調整可能である。私にとって、キックボードは三日月を半月に変えただけでなく、月が丸いことをも再認識させてくれたものなのである。

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