食卓での時間

Ayaka Sakamoto
exploring the power of place
4 min readJun 19, 2020

「この料理はどのお皿に盛り付けたら合うかな?」
「んー。あ、あの三角のやつがいいかも!」
ここ最近、毎日のようにキッチンで母とこのような会話を行なっている。

実家での生活を始めてから、かれこれ2ヶ月以上が経った。帰省当初は1、2週間だけの予定だったのだが、緊急事態宣言の発令や大学授業・就職活動のオンライン化、バイト先の休業により、東京に戻る理由がなくなってしまい現在に至っている。

この外出自粛期間は、これまでの人生で一番と言っていいほど家で過ごす時間が長かった。そのお陰か、スマホのカメラロールを遡ってみると家の中で撮られた写真がフォルダを占めている。ベランダから見える風景や、部屋に飾っている花の写真、動画に合わせてストレッチをする両親の姿などがある中、一番多く撮られていたものは「おうちごはん」だ。

外に出られなくて窮屈だと感じがちな生活の中でも楽しみが増えるように、母は家での食事を今までより少しだけ工夫をしていた。ちょっと手の込んだ料理を作ることも大事かもしれないが、それを毎日続けることは難しい。なので、

・昨日の残り物や簡単な一品を豆皿にのせることで品数を多く見せる
・丸や四角だけでなくいびつな形のお皿を使う
・木のプレートや石のプレートにのせてカフェっぽくする
・せいろやホットプレートなどで臨場感を出してみる
・餃子はタレを5種類ほど作って味のバリエーションを増やす
・サラダは上におかずを何種類ものせて彩り豊かにする

など、料理の出し方や盛り付けをいつもよりこだわってみることで食卓を少し豪華に見せて、目でも楽しめるようにしていた。

用意してもらった私たちの気分が上がることはもちろんだが、何より作った本人である母がお皿選びなどを一番楽しんでいることが印象的だった。私自身食いしん坊であるはずなのに、この母の姿を見るまで、食卓を大切にすることが日々の幸せにもつながるという当たり前のことを見失ってしまっていた。

記録していた「おうちごはん」の一部

実家に帰省する前の私はなるべく食事にかける時間や労力を減らすようにしていた。3月に入り、就職活動が慌ただしくなったことも要因である。食事を抜いたり、食べるときでもなるべく15分以内に済ますので調理をしても煮るだけや、レンジで温めたものをお皿に移し替えるだけであった(もはや調理とは言えない)。食事時間がかかりそうな時はパソコン片手にながら食べも厭わないという生活を送り、かなりおざなりにしていた。空腹を満たすためだけに食べていたので、食事が楽しいと思うこともなく、部屋で過ごす1日1日がかなり苦痛であり、頭と心がだんだん凝り固まっていた。

しかし実家に帰ってきてから、母が楽しそうに食事を用意する姿に触発され、時間がないときでも盛り付けなどを手伝い始めるようになった。すると、この料理はどんなお皿が一番合うかを考えることは楽しいだけでなく、気持ちをリフレッシュさせることに気がついた。さっきまで画面に並ぶ黒色の文字ばかり見ていた目を食材や皿の彩りに移すことで、固くなった頭もほぐれていくような感覚になったのだ。

これまで、つい惜しくなって排除しようとしていたキッチンや食卓での時間をきちんと取ることが、生活だけでなく気持ちも区切ることができる。そして、そこで生まれた精神的な余裕がもうひと頑張りするための活力へとなる。一歩引いて見るとこんな当たり前のことさえも、一人だと見えなくなってしまっていた。
もし、あのまま食事を無碍にする生活を続けていたら…と考えると身震いがする。

最近は少しずつ時間にも余裕が出てきて、盛り付けだけでなく料理を担当することも増えてきた。いくつかの調理工程を重ね、出来上がったら一番それに合った色・形・素材のお皿を探し出してきて盛り付ける。食べてくれる家族のことも考えるが、自己満足のためであってもいいのである。どんな状況であれ、日々の生活に楽しみを見出すための工夫ができることが、強さであり人生を豊かにするための秘訣なのだとこの2ヶ月ほどで学んだ。

母とは、いつか事態が収束したら益子の陶器市に行こうねと約束した。

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