飾らない閉鎖空間

Yudai Matsumuro
exploring the power of place
4 min readDec 19, 2017

僕は人が多いところと同じくらい閉鎖空間が苦手だ。デパートの地下は独特な匂いで頭が痛くなる。中でも冬のデパ地下は暖房が効き過ぎていて、色々な意味で最悪な場所である。閉鎖空間が嫌いになった理由には、なんとなく心当たりがある。

僕がまだ幼稚園に通っていた頃、母親に連れられて博多座で歌舞伎を観させられた。演目は市川猿之助の三国志だったらしい。母には姉が一人いて、母の母つまりは僕の祖母と三人で、昔から歌舞伎や宝塚に何度も足を運んでいたらしい。当時はファンクラブにも入っていたと思う。そのくらい母は昔から舞台演目が好きだった。母によると、一言で言うなら歌舞伎は、華やかさと非日常な空間、世界観を感じれる場所だから魅力だと言っていた。母は途中退出を避けるべく、万全な準備をして博多座に向かったらしい。行く前にガチャガチャをして僕の機嫌をよくしておき、僕のためにおにぎりとお茶を準備していてくれた。劇場に入り、お手洗いを済ませ座席についた。歌舞伎の場合、お弁当が劇場で販売されていて、開演前や休憩時間に食べていいことになっているので、ところどころからお弁当の匂いが香ってきた。落ち着くことができない子どもだったので、20分ですら座ることなんてできてなかったと思う。当時の僕は匂いも、動けないことも嫌で嫌でしょうがなくて、子どもながら我慢していたが、開演を迎える時にはほとんど限界に近かった。正直演目の内容はわからないかったし、顔面が白く、顔立ちが怖い人間が大声を出した時に僕は泣き出した。色々と限界だった。母と一緒に退出し、とりあえずお手洗いに行った。その後席に戻るも、母に帰りたい旨を伝え続けた。粘り勝ちが功を奏し、帰ることになった。今思い返すと母にはとても申し訳ないことをしたと思うが、僕のトラウマの原点になったことには違いないから、おあいことしてもらいたい。

そんな僕でもついつい足を踏み入れてしまう閉鎖空間がある。それはミニシアターである。もちろん映画自体が好きなのもあるが、母の劇場のように、僕は映画館に魅力を感じる。大手の映画館も好きだが、どこかミニシアターに惹かれてしまう。ミニシアターにいる人のほとんどはエンドロールが流れても席を立たない。最後まで見届ける。しかし明かりがつくとそそくさと退出をする。だからと言って、帰るのではなくロビーで話したり、次回観に来る映画を選んでいる。一般的な大きな映画館の看板対してミニシアターの看板はそれほど大きくない。目線を少し上げるだけ、反対にしゃがむだけで見ることのできる大きさだ。むしろ情報は自分から拾いに行く必要があるくらいで、僕にとってはそのくらいがちょうどいい。その方が作品自体への好奇心が騒ぎ出す。銀座でも渋谷でも新宿でも、ミニシアターがある街は企業広告がでかでかとあったり、とにかく情報が多い。親切なのかお節介すぎるのか言わずとも知れている。文字や絵、写真が所狭しに敷き詰められていてかわいそうだ。そんな時ミニシアターへと足を運ぶ。入り口でなんとなく気になる作品があれば入り、なければ別のミニシアターへ行く。それ以上でもそれ以下でもない。

ミニシアター入り口の上映案内看板

看板はその空間の象徴になる。看板娘と言うように、看板とはその店の、その場所の顔である。見た目だけで判断するのは良くないが一番最初に見る顔に興味がなければ、ただ通り過ぎてしまう。足を踏み入れるまでに至らなければ、ただの日常の景色の一部であって背景でしかない。僕にとってのミニシアターの看板は主張が決して強いわけではないけれど気になるなにかがあるのは間違いない。決して手の込んだものではないがそれでいいし、そこがいい。変に謳い文句をつけることなく紹介しているのだ。ミニシアターには歌舞伎ほどの華やかさはないかもしれないが、落ち着きとくつろぎがある。母も僕も非日常や世界観を誰かと共有したいのだ。最近は母と二人で出かけることがないので、今度はミニシアターにでも連れて行こうと思う。今度は僕が映画の感動で母を泣かせる番。途中退出はなしに。

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