高校時代をもとにして
季節の変わり目は風邪を引きやすい。どこかの誰かがインスタグラムに「もう今年の夏の暑さを忘れかけていて悲しい」と投稿していた。たしかに、今は夏の暑さが恋しい。ご多分にもれず僕も風邪を引いてしまい、泣く泣く飲み会の予定をキャンセルした全休の今日この頃、さてなにをしようかと雲一つない青空に問う暇も無く、午前中は溜めていた洗濯物を一気に洗って、コインランドリーにぶち込んだ。
一段落していたら、そう言えば来週簿記の試験なのに最近何もやっていないことに気付いたので、午後は気の赴くままに近所のドトールに初めて入った。ツケが回り悪戦苦闘しながらも、順当に参考書のテキストの今日やる部分の、やっと半分を終えた辺りで、ふと高校時代を思い出し、懐かしく思う。
大学の授業では、PCを使い、PDFで資料が配布され、黒板を使わない。もちろん板書を書き写す行為がない。教科書・参考書もない。ちなみに僕は今まで買ったことが無い。多かれ少なかれ、世間一般の大学生のノートを書く量は減る。シャープペンシルを持つのは出席表の学籍番号のところにマークする時だけなんて日もざらにある。
当然課題への取り組み方も異なる。文献を読んでレポートをまとめることはあっても、参考書をもとに問題を解くわけではない。グループワークで議論したことを、パワーポイントを使ってまとめることはあっても、学んだ内容を分かりやすくノートにまとめて提出することはない。
それだけに、参考書を見ながら、要らなくなった大学ノートやコピー用紙を書きなぐり、問題を解いていく作業は、どう考えても高校時代のテスト前のそれを思い出す。友達と話しながらあーだこーだ言いいながら、効率悪くテスト勉強をしていた。時には問題を出し合いながら、教え合いながら。
懐かしいなあと思っていたら、高校生が入ってきた。もう放課後なのかと時間の流れの早さを感じながら、A3ゲラ刷りの紙を見ながらなにやらブツブツ言っているのが聴こえた。どうやら、定期テストが近いらしい。20分もすると、僕の周りは高校生だらけになってしまった。
そういえば、先日、土曜日で補講のために学校に行った時もそんなことを思い出した。日の高い午前中に学校が終わることは珍しい。生協も学食もやってないので、軽食を買うことはできなかった。そうして仕方なく家に帰るこの風景は、高校時代の土曜の半ドンに似ていた。土曜日の12時50分に終わり、お昼を食べ、午後は三々五々と別れていく。
帰り道に原付を走らせながら、冬が近づくにつれ空気が澄んで、高くまで見えるようになった空を見上げる。どこかで見たことある風景だなと思ったのは、高校時代、近所の安いラーメン屋に向かうために友達と一緒にチャリを漕いでたときに見上げた風景をふと思い出したからだった。
経験したことがないにもかかわらず、過去に体験したような気持ちになるのは、なぜだろうか。実際には、スタバで勉強した高校時代とドトールで勉強する今は異なるし、自転車で帰った高校時代と原付で帰る今も異なる。
きっとそれは、人びとが、今感じたことを、どこかにカテゴライズせずにはいられない生き物だからであり、しばしば過去の事柄をものさしとして使うからだろう。僕らが測るのは工業製品ではない。ひょっとしたら、僕らが持っているものさしに目盛りはないかもしれない。
それでも、ものさしがあることによって、語れることは増える。ただ懐かしさを感じているだけでなく、そのものさしをもとにして語る行為は、何もなく過ぎ去ってしまうはずの1日の、文章を増やし、また1つ僕の生活を豊かにしてくれるだろう。
夜の9時近くにもなると、流石に高校生もいなくなってしまった。僕の高校時代は、閉店時間までいたものだが、多分まだそこまで切羽詰まってないのだろう。と思いきや、9時が閉店時間だった。この店の事情を知っていたのは高校生の方だったか。そう思いながら、店員に退店を促されドトールを後にするのである。