まちのスポットライト

Sayako Mogami
exploring the power of place
4 min readAug 10, 2017

高校3年のとき、夜地元の塾から自宅までの帰り道を私はよく大通りの車のライトや家の明かりで明るく賑やかな方でなく、道路沿いにぽつぽつと街灯の並ぶ田んぼ道を選んで帰っていた。

両親から危ないからやめなさいと言われて以来、夜にその道を使うことはほぼなくなったがこの前ふと思い出した様に久しぶりにその道から歩いて帰ってみた。薄暗いから音に敏感になる。大通りと比べるとずっと静かだが、そこからは色んな音がする。それなりに大きな街ではあるが、耳をすませてみれば色んな種類の虫の鳴き声、風になびく稲、小川の流れる水の音などいつもは車にかき消されていた外の音が聞こえる。薄暗くてよく見えないからよく目をこらす。太陽はもう沈んでいて夜に違いはないけど空はまだ明るい。暗闇の中にぽつぽつと照らすオレンジの明かりはただそこにあるだけで私を安心させてくれる。

当時の私にとってそこは逃げ場みたいなものだった。学校に友達はいたし、それなりに楽しい学園生活を送っていたが、心のどこかで自分の生活や学校のあり方に違和感を覚えて、なんとなく嫌だった。でも、だからといって何か大きなトラブルを起こしたり、学校に行かないというところまで振り切れるタイプでもなかった私はずるずる、うだうだと過ごしていた。きっと漠然と嫌だという気持ちを持ちながらもなんとかつなぎとめていたのは、「みんながそうしていたから」というとりあえずの調和がもたらす安心感だった。そう思うようになったのは小学校のころによくある同級生内のトラブルに巻き込まれたことがあったのがきっかけだったと記憶している。それから特に意識をしていた訳ではないけれども相手が何を考えているのかだったり、自分がどう見えているのか顔色を日常的に気にするようになっていった。そんなふわふわしたまわりの人を気にしすぎる自分が嫌だと思いながら結局なにもやろうともしなかった私は、その場しのぎであったとしても周りという存在を気にしなくても良い、ひとりになれる時間や場所が欲しかったのだろう。

あの道を歩くとその頃の気持ちを思い出す。今思うとたいした話ではないのだが、当時の私にとっては深刻な問題だった。薄暗い中で、街灯の光に照らされた自分の影を見るとひとりでいることを感じることができる。それは寂しいという意味でのひとりではなく、どちらかといえばここに私はいるんだというという実感に近い。誰かの中のひとりではない自分を照らすその光はまるで夜にだけ現れるスポットライトのようだった。まちに明かりは溢れていて、その数だけスポットライトもある。そのスポットライトは当たり前を照らし出すことでそっと私たちに日常に気付くための「きっかけ」を与えていく。あの道での出来事も埋もれた記憶から引き出してくれた。

小学校の頃によく遊んでいたマンションの砂場も同じように照らされていた。

自宅マンションの砂場。誰も遊ばなくなって雑草が生えている。

私のマンションに小学生はもういなくなってしまったからなのかそこには生き生きと雑草が生い茂っていた。忘れていた時間がここまで雑草を育てていた。

このように照らされてしまうと砂場で遊んでいた頃を思い出して当時に思いを馳せてしまう。こうも使われなくなってしまった様子を見ると少し悲しい気持ちにもなるが、この気持ちも照らされることがなければ見過ごしてしまう悲しさだったと思うと決して悪い悲しさではないのだろう。

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